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幸田露伴の随筆「潮待ち草17~20」

十七 香
 麝香(じゃこう)は麝(じゃ・ジャコウジカ)と云う獣(けもの)の陰部から臍(へそ)の辺りまでを抉り取って干したものが真正な品である。臍に香気があるわけでは無いが、臍は香気があるところに近いので一緒に抉り取って真正品の証拠とするのである。それで麝香を数えるのに一ト臍二タ臍と云うのだそうだ。この獣は牡(おす)と牝(めす)が求め合って欲情が大いに動く時に、その香はいよいよ烈しくなって、その品質はいよいよ佳くなるという。この事は私の憶測の話ではない。世に「麞麝考(しょうじゃこう)」二巻があるので詳しくはこれを見るとよい。香水は多くは花から抽出する。草木の花の雄蕊(おしべ)と雌蕊(めしべ)が触れ合うことで花粉の授受がなされて、生殖作用が始まる時に、思うに花の香りは大いに迸(ほとばし)り出るものである。百合の花などは花弁や蕊が甚だ大きいので、そのどれが芳香を発するのかは、之を調べれば容易に知ることが出来よう。菫(すみれ)・玫瑰(はまなす)・薔薇(ばら)・ジャスミン・ヘリオトロープの類など、一々これを調べたわけではないが、思うにこれ等のものもまた、皆その生々の作用を為す花の開く時期にあたって初めて芳香を発し、いわゆる菫の香水や玫瑰の香水のなどの類は、即ちその気を抽出蒸留等の方法によって捕足して作るのである。だとすれば世の婦女子の愛する香気はほとんど皆、獣や草花の欲望の香と云える。婦女子がこれ等の香を酷愛して、その馥郁(ふくいく)とした気の中に身を置こうと欲するのは、奇妙なことである。沈香や白檀の類は人の心を鎮静的に衝動し、麝香やバイオレットの類は活動的に衝動するように思われる。仏式に香木を焼くことが多いのは、必ずしも嫋(たお)やかな女子などに麝香や菫気を佩びることの多いことからの連想だけでもないだろう。

注解
・麞麝考:ジャコウジカに就いて記された本。

十八 色盲
 正しく色を識別できないものを色盲(しきもう)と云う。色盲の人は世界に少なくない。正しく物の香りを聞き分けられない人を何と云うべきか、かつて椎(しい)の花の香りを木犀(もくせい)の花のようだと云った者がいたのに驚いて、その後しばしば様々な人について注意して来たが、世には確かに色に於いての色盲のように、香気を正しく識別できない人が少なからずいることを知った。また、その人が愚かと云う訳でないのに音の高低が能く解らない人もいるようである。色が分からない。香が分からない。音が分からない。味が分からない。皆その人の罪では無い。憐れむべきことであるが、責めるべきことでは無い。

十九 此の身
 盲者(もうじゃ)視ることを忘れず、聾者(ろうしゃ)聴くことを忘れず、躄者(へきしゃ)は夢で立って歩くことが多いと云う。人が天国を思のも我が身が盲者や聾者(ろうしゃ)や躄者(へきしゃ)のようであるためであろう。

注解
・盲者:目が見えない人。
・聾者:耳が聞こえない人。」
・躄者:足で歩けない人。

二十 極楽世界
 エドワード・サリヴァンは「快駚船術(ヨッティング)」の緒言で云う、「極楽世界もまた多い。昔の人が云う極楽世界は仙境の楽土の意味である。北アメリカの先住民のいわいる極楽世界は、好い狩猟場でかつよく肥えた水牛の多い土地に他(ほか)ならない。トルコ人の先祖であるスキタイ人などは、永久に爛酔して醒めることなく、且つ敵人の頭蓋骨から紅血を飲み尽くすことを以って快楽の光景だとし、また現在の回教徒はコーランの第十章に記された極楽世界が真の極楽世界だとしている。この他或る婦人はその友と来世での語り合いを極楽世界での事とし、私の友人の或る人は千里馬に騎乗する事を以って極楽世界での事とする。又、極楽世界は他でもない、四頭立ての馬車に乗り造父(ぞうほ)に御させて巡回する事にあると云う者がいる。私などは時速十八キロの二百トンのヨットに乗って、夏の日の海に波を踏み分けて、心のままに舟を進める事を以って極楽世界が実現したとする。ヨットが果して極楽世界であるかどうかは知らないが、極楽世界は実に人々の好むところでその姿は異なる。キリストの天国、仏教の浄土、回教の楽園、これを詳細に比較すれば、その差異とその差異が生じる理由は、八兵衛の極楽世界と九兵衛の極楽世界との差異やその差異が生じる理由と大差無いことだろう。仏教は熱帯の国で生まれた宗教のためか、その説くところの極楽世界には清涼の趣が多いことは争えない。モシある教主が寒帯国の中に起こって極楽を説けば、その説くところの極楽世界は、思うに温暖の光景が多いハズである。
 非常に煙草が好きな男が居て、かつて罵って云う、「極楽にはマニラ煙草は無いようだ。この世に居るうちに思う存分吸うしかない」と、私がその言葉を聞いたのは十余年前の事だが、余りに可笑しいので今でも忘れない。冗談とは云えども、おのずから頷(うなづ)けるところがある。古(いにしえ)の極楽世界では現代人を悦ばすことが出来ない時代になったと云うべきか。

注解
・エドワード・サリヴァン:「ヨッティング(快駚船術)」の著者。
・千里馬:一日に千里を走る馬。ここでは名馬という意味か。
・造父:中国・周の時代の名御者。
・マニラ煙草:フィリピン産の葉巻煙草。


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