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幸田露伴の伝記「真西遊記・その一」

その一

 支那(中国)の隋の時代の末期に陳慧(ちんえい)と云う人がいたが、慧は即ち玄奘三蔵の父で河南省の陳留に住んでいた。慧の父は康(こう)と云って学問に優れていたので斉の時代に国子博士(こくしはかせ)となり、そのまた父の欽(きん)は後魏(こうぎ)の時代に上党の太守となっているので、玄奘もマズは名家の家系に生まれたと云える。特に父の慧は才能に優れ、心清く、経学に能く精通していたので、江陵の県令に挙げられていたが、隋の政治が乱れてきたのを嫌って辞職し、退いて静かに聖経や賢伝を読み味わっていたほどの君子で、身長八尺、眉美しく眼(まのこ)明らかな威風堂々とした人で、その子に玄奘のような世にも稀な功績を立てた者が出たのも不思議ではない。
 慧には四人の子がいたが、玄奘はその第四子である。その名を褘(い)と呼ばれていた幼い頃から早くも心聡(さと)く,普通者(ただもの)ではない様子を現すことが時々あったので父も大層寵愛していたが、八歳の頃のこと大層感心したことがあった。ある時父が玄奘に「孝経」と云う書物を読んで教えていたが、「曽子席を避ける・・」と云う個所になると忽ち襟を整えて席から立ったので、父が、「玄奘、なぜ立つか」と理由を問うと、「なぜならば父上、曽子は自分の師の孔子の教えを聞くのに席を避けたとありますのに、今玄奘が恩高き父上の教えを受けて座って居るべきではありません」と、今読んで教えられたことを直ちに我が身に当て嵌めて実行する健気な精神を明らかにした。真(まこと)に大人も及ばない心の働きように父は大いに悦んで、「この子は必ず行く末は何事であっても遣り徹し、成功して名を挙げるだろう、行いに敏(さと)いとはこのような事を云うのだ、我が子ながら天晴な敏い者である、末頼もしい、アラ嬉しや」と玄奘に対して褒めることは無かったが、妻や親類に語ってお互いに将来を楽しみにますます愛(いつく)しんだ。
 それからは成長するにつれ経書に精通し、仮にも竹馬や競争(かけっこ)のような幼稚な遊びなどを、子供の群れに入ってすることも無く、隣りのおば様や向かいのじい様などとの無駄話も仕ないで、外を通る飴屋や菓子屋が鐘を打ったり節もおかしく歌を唄ったり、又は覗き眼鏡や操り人形等のいろいろ様々に面白いことを云い囃して子供を呼ぶ者も大層多いが、思いを散らさず、心を移さず、小座敷に居て眼(まなこ)を聖人や賢人が説き遺(のこ)された書物に注いで、外の賑わいにも眼を遣らず、閑さえあれば父母を気遣い、気晴らしには庭を散歩して、未(いま)だ嘗て賤しい娯楽(たのしみ)を行うこともなく、聖賢の行いを密かに慕い仰いで、「私も人である、聖賢も人である、であれば、学んで励めば聖賢のように成れない訳は無い、私も出来れば徳業(とくぎょう・善行)に拠って永遠に輝くような人になろう」と、頻りに学問に励んだ。三人の兄の中の二番目の兄は、既に出家剃髪をして東都の浄土寺に住んでいたが、玄奘が行いに慎み深く、心構えも清く高く、人欲の争いの凄まじい世の中に在って出世欲も金銭欲も無いのは、法門に入って尊き教えを世に広めるのに適していると思い、自分の坊に連れて来て住まわせた。日々に仏の道の道理を説いて聞かせたが、玄奘は怠ることなく学んで、十一才には早くも維摩経や法華経などと云う経を滞りなく誦唱出来るようになった。
 その頃、急に勅命があって洛陽で僧の認定が行われると云うことで、我こそ選ばれたいと、何れも業の優れた者が数百人ほども集まったが、玄奘は年も若いのでそのような心も無く役所の門の側に立っていたところ、その時通りかかった大理卿の鄭善果(ていぜんか)と云う人を見る目のある者が、玄奘を見て立ち止まり、この子は大いに見所(みどころ)があると思い、「お前は何という姓か」と姓氏を尋ね、「お前も認定を求めるか」と問いただした。玄奘は答えも明白に、「陳留の陳玄奘と申します」と名乗り、「私も認定を受けたい気持ちがあります」と云うと、鄭善果は猶も「お前は髪を落とし頭を丸めて出家した後に何をする所存であるか」と難しい質問をする、玄奘は再び答えて「別に特別な所存も有りません、出家となった暁には如来の道を継いで、その遺法を役立てたいと思います」と大胆にも当然の理を云い放った。「天晴れ、年に似合わず小気味よい言(こと)を云う、蛇(じゃ)は寸にして蛇の勇気をもち、栴檀(せんだん)は二葉にして栴檀の香りありとはこのことを云うのか、アラ恐るべき子供であることよ」と、舌を巻いて驚いた鄭善果は、つくづく玄奘の志(こころざし)の健気なことを喜んで、またその抜群に優れた容貌風采に敬服して、ついに幼い玄奘を僧に認定したが、「この子の学問諷誦の業(わざ)はいまだ未熟であるが、それを成すのは容易(たやす)い、この志この器量は得難い、そこでこの子を出家させた、この子は将来必ず仏法の光を揚(あ)げる大丈夫に成ろうが、ただ私も諸君もこの子が天下に羽ばたいて、甘露の妙法の味わいを普(あまね)く世に注ぐのを見ることなく死ぬだろうことが恨めしい」と、仲間の役僧に語ったと云う。
 出家して沙弥(しゃみ・小坊主)となった玄奘はますます際立って特立し、口に誦すもの目に視るもの全てコレ経論だけ、殆んど暇なく勉強していたが、同じ寺中の幼い沙弥等が滑稽話に騒いだり無益な遊びをするのを観て、「経にも云っているでは無いか、出家は無為の法を修めるものだと、であれば出家は浮世のことに心を乱さず、寂然として徳を積み努力を重ね、業を成就して迷える者を救うべきであるのに、なぜ遊んでばかりいるのだろう、無駄に百年を失うことは実に悲しいことでは無いか」と歎息して諫めた。その当時に景法師と云う者が居て涅槃経を講義したが、玄奘は経巻を執って景法師に従い寝食さえ忘れて学び、又、厳法師と云う者には摂大乗論を学んだが、二度目の時には皆暗記していて、講座に上って講じたが、細かく道理を説き意義を申し陳べて曖昧模糊の個所も無く、師の講義内容を少しも漏らすことなく説いたので、衆僧は驚き魂消(たまげ)て、神か菩薩の化身かと称賛すること尋常でない。時に年わずか十三才であったが、これ以後その芳名は流れて四方に伝わる。
 その後、隋の世は乱れて豪傑が乱立し、剣戟を戦わせて争う修羅場と化したので、玄奘は、「この地は父母の邑(むら)ですが、争乱がこのようになっては大層危険な所となりました、空しく此処に居て死んでは詰まりません、長安と云う所は安全だと云って人々が押し寄せているそうですが、であれば、きっと安全なのでしょう。どうです兄上、一同揃って長安へ行かれませんか」、と兄の長捷(ちょうしょう)法師に勧めて、ついに兄弟で長安へ行ったが、此処もまた戦乱の地であって仏教などに関心は無く、京城中に唯一ツの講席さえ無いことに玄奘は深く悲しんで憮然として歎いた。しかし無駄に日を過ごすのは本意(ほんい)ではないので、蜀の方に高僧が多いと聞くと、寸時惜しむべしと、「お願いです、蜀に行って高僧に遇って業(ぎょう)を受けたいと思いますが」と兄に勧めて、子午谷(しごこく)を過ぎ漢川(かんせん)まで進んで空(くう)法師と景(けい)法師に遇い、これに従がって学を受け、ついに四人で連れ立って成都に入った。成都は乱も無く、天下の僧たちが集まって居て、法筵の開かれることも少なく無かったので、玄奘は悦び勇んで基暹(きせん)法師に摂論阿毘曇論(せつろんあびどんろん)等を受け、震(しん)法師にも就いて学んで精を出して日夜努めたが、二三年で諸部の経論に精通し、各所の講座に集まる僧は百人二百人或いは三百人近くいたが常にそれ等の僧に抜きん出ていた。
 年二十一の時、兄と共に空慧寺と云う寺に住んでいたが、考えて見れば学問は固陋であってはいけない、ただ一方だけを尊んで他に深いもののあることを知らないのでは、いわゆる井の中の蛙である、イザこれからは益々奮って諸所の名僧碩徳の教えを受けようと発奮したが、兄の長捷に引き留められた。そこで密かに商人等と示し合わせて舟を三峡(さんきょう)に浮かべて長江に沿って脱出し、荊州の天皇寺と云う所に着き、北を通って相州に行き、また長安に着いて大覚寺に留まったが、その間に休法師・深法師・岳法師・常法師・弁法師等に従って専心勉強苦学に励んだ。(「その二」につづく)


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