幸田露伴の随筆「潮待ち草10・11」
十 人間五十年
梅には梅の香気があり、松には松の香気があり、美人には美人の性情があり、英雄には英雄の気象がある。織田信長が今川義元と戦った時に、今川軍が大高城に着いたと丸根城からの急使が知らせて来たにも関わらず、軍議も開かずに雑談酒宴で夜を明かし、その明け方に又も急使が来て、今川軍が今や鷲津城、丸根城に攻寄せたと聞くと、幸若舞曲の「人間五十年、下天(げてん)の中(うち)を比(くら)ぶれば、夢まぼろしの如くなり、ひとたび生を受け、滅せぬ者のあるべきか(人間世界の五十年は天上世界と比べれば夢まぼろしのように儚い。生ある者で死なない者があるものか)」というところを繰り返し舞って、「さらば貝吹きたてよ、具足おこせよ、(サア、法螺貝を吹き鳴らせ、武具を身に付けろ)」と命じて、やがて武装して出馬し、終には桶狭間の一戦で今川義元を討ち取った。そのことは、「総見記」などに出ていて誰でも知っているところであるが、人間五十年の句は、その時に当って偶然信長が思い立って舞ったのではなく、実際に信長が平生から愛誦していたところの句であった。天沢(てんたく)と云う僧が武田信玄の問に答えて、信長の日常を語った言葉の中で、信長は清州の商人の友閑(ゆうかん)と云う者を招いて舞(まい)を舞(ま)い、しかも「敦盛」の曲以外は舞わずに、「人間五十年、下天(げてん)の中を比ぶれば夢まぼろしの如くなり」と云うところを口ずさんで舞うと云うことが、「信長記(しんちょうき)」に出ている。だとすれば、思うに信長は「敦盛」の中のこの数句を聞いて、深く密かに悟るところがあって平生から好んで舞ったに違いない。人間五十年の句は熊谷直実が敦盛を討ち取った後、無常を感じて道心(どうしん・信仰心)を発する場面に出て来る句なので、曲の方から云うと厭欣(おんぐ)の意(おもい)(厭世と欣求浄土の思い)を述べたものだが、信長は、「人間の五十年は実に夢まぼろしのようだ。生命ある者は必ず死ぬ、生死の事などは云う価値も無い、大丈夫はただ正にその為そうとするところを為すだけである。」と受け取って、好んで口ずさんだものと思われる。であれば、信長の受け取り方は曲本来の意味と少し異なるが、いわゆる「同じ水を人間や魚や天人や餓鬼ではそれぞれ様々に見る」と云う喩えのように、信長は信長の耳で聞いて信長の心で味わい、そして自分の骨身に徹するところのあることを感じて、人も知ってそれを噂するまでに、人間五十年の句を愛したのであろう。信長は機嫌の変化の甚だしい人であったが、平生好んで「ひとたび生を受け、滅せぬもののあるべきか」と云うところを舞ったり歌ったりしたのは、決して人を欺いたり世を瞞着したわけではない。仮初(かりそめ)の好き嫌いの中にも英雄には英雄の気象が現れると云うべきである。信長もまた好んで「死ぬは一定(いちじょう)、忍び草には何を為(し)ようぞ、一定語りおこすのよ(死ぬのは定め、生きた証に何をしようか、その生きた証を後の人は偲ぶのだ)」と云う小歌を唄ったと云う。歌の意味はこれもまた、「生あれば必ず死がある、死生は云うに足りない、男児ただ須(すべか)らく芳を千年に流すべし(生あれば必ず死ぬ、死生は云うに足りない、男たるものは当然のこと芳名を後世に遺すべきである)」と云うのである。仮初に好んで唄う歌にも、英雄には英雄の気象があらわれ、卑夫(ひっぷ)には卑夫の気性があらわれる。コレ思うに隠そうとしても隠せない、学ぼうとしても学べないところであろう。
「敦盛」の一曲は、誰が作ったものか知らないが、それが信長の為には大明呪、無等々呪となって、英雄の気象を助長したことは疑い無い。信長の資質の十分の一も持たないで、いたずらに小説や戯曲の類を無駄のように云う世間の無知な輩などは、小説や戯曲の類を無駄のように云うが、そのことだけでも、即ち愚昧暗鈍で英雄的なところの無いことを暴露していると云うべきである。
注解
・織田信長が今川義元と戦った時:桶狭間の戦い。
・総見記:織田信長の事蹟を編年的に叙述した戦記です。
・信長記:織田信長の伝記。
・「敦盛」:幸若舞の舞曲。
・熊谷直実が敦盛を討ち取った後:源平の戦い。
・大明呪:優れた智慧の真の呪文。
・無等々呪:比べるものが無い優れた呪文。
十一 湯帷子
信長は人を欺くこと甚だしかったが、自分を欺くことは少なかったようである。家康は人を欺くことは甚だしくなかったが、自分を欺くことがなくはなかったようである。信長が義元を討とうとするのに先立って、熱田神宮で白鷺の吉兆を得たことや、美濃の斎藤道三の所へ婿入りした時に、初めは異様な扮装をして後には尋常の服装をしたことや、長篠の戦いにおいて衆人の前で酒井忠次を叱りながら、蔭では忠次を賞賛してその作戦を用いたことなどは、皆これ人を欺くことも甚だしい。しかしながら光秀を虐待して、終には大きな過失を招いたことや、秀吉がまだ小者の時に鶉の見張りを怠ったと怒って、真菰でその肌を傷つけて大いに苦しめたなどは、思慮が浅いと云えば思慮が浅いとも云えるが、自分を欺かないと云えば自分を欺かないとも云える。為したいことを為した遠慮のない直情径行のところを想い見るべきである。臨機応変に甚だ巧みに人の虚を突くことで「隙間数えの大将」と云われたにも関わらず、この直情径行のために自分に克ち怒りを堪える工夫が無く、一途な正直の為に本能寺で不測の奇禍に遭い功成らず死んだことは、惜しむべき悲しむべきことである。
それにしても道三に会おうと富田にかかった時の、萌黄(もえぎ)の平打ちの糸で巻き立てた茶筅髷(ちゃせんまげ)を空に聳やかし、長柄を藁縄で巻いた大刀と小刀に太い芋縄の腕貫きの紐を付けて差して誇り、大きな陰形を染め付けた広袖の湯帷子を着て、虎の皮と豹の皮を四ツ替わりに縫い合わせた半袴を穿いて、腰には火打ち袋をと瓢箪などを七ツ八ツぶら下げて、太く逞しい馬に跨った信長の姿は、どれほど美濃の人々を驚かせたことか、人を塵埃(じんあい)とも思わずに之を侮り軽蔑することもこれまた甚だしいと云える。
注解
・白鷺の吉兆:桶狭間への途次に熱田神宮で戦勝祈願をしたところ、神殿の奥深くから鎧の触れ合う音が聞こえ、一羽の白鷺が飛び立つ吉兆があった。
・異様な扮装の話:舅の道三に招かれて初の会見に赴く道中は評判通りの大ばか者を装って異様な扮装をしていたが、イザ面会の折には正装で臨んだ。
・酒井忠次の話:長篠の戦いを前にした作戦会議で忠次は鳶巣山の攻略を提案したが信長に嘲笑された。しかし軍議が終わった後に信長は忠次を呼び戻し鳶巣山の夜襲を命じた。
・光秀の虐待と大きな過失:信長から駿河を拝領した家康がお礼に参上した時に接待の不手際を責めて光秀を足蹴りにするなどの虐待をした。それが本能寺の変と云う大きな過失を招く結果となった。
・秀吉が真菰で肌を傷つけられた話:信長が鷹狩りの折に鶉のいるところを秀吉に見張らせておいて、イザ鶉を狩ろうと出向くと鶉は逃げていた。信長はこれを怒り秀吉を裸にして、真菰で皮膚をこすらせた。
・萌黄の平打ちの糸:萌黄色をした平紐。
・茶筅髷:形が茶をたてるときに用いる茶筅の形に似ているところから名づけられた髷。
・長柄:長い刀の柄。
・腕貫き:刀の柄頭につけるひもの輪。これに手首を通して柄を握る。
・陰形:男性性器。
・湯帷子:浴衣。
・四ツ替わりに縫い合わせた:いわゆる千鳥(対角合わせ)に縫い合わせたものか?。
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