幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・金光明最勝王経②」
金光明最勝王経は智者大師の尊信し顕揚するところである。その経の霊威妙徳なことは云う迄もない。序品(じょぼん)で金光明最勝王経の主旨を云い、次の如来寿量品第二では、妙幢菩薩(旧訳では信相)が如来(釈迦)の寿命のわずか八十年と短い理由を問う。その主旨は法華経の寿量品と呼応して、その優れたさまは云うに云えない。芥子粒(けしつぶ)ほどの仏舎利であっても得たいと望む憍陳如(きょうちんにょ・カウンディニャ)の願いを、梨車毗(りっちゃび)の童子が斥けて、「たとえ鷦鷯(みそさざい)が嘴(くちばし)でもって香山を銜(くわ)えて飛び回っても仏舎利は得られないでしょう」と諭すと、憍陳如も悟って、「仏舎利は芥子粒ほどであっても存在しない、仏は血肉身ではない(法身である)、どうして舎利が有ろうか」と云うようになり、仏みずからが涅槃の本義を説いて、仏は般涅槃(入滅)しないと云って小乗の説を大風が芭蕉を薙ぎ倒すように説破する。第三品では分別三身を説き、第四品では妙幢菩薩が夢で金色(こんじき)の光明に輝く鼓が妙なる声を出すのを聞き、その妙なる声の中に優れた伽陀(かだ・偈)の有ることを知って、これを仏に告げる。金鼓の妙なる声の中に優れた伽陀のある話は甚だ趣があって、その風韻は人を感動させる。「金光明経は、その教え満字を窮め、金鼓を夢の中に打ち、理は真空を極め、宝塔は地上に踊る」と後人が云うその前半の句は、正にこの事を指すのであって、他の経にはない幽妙秘異なところである。滅業障品第五は帝釈天が、「大乗を修業して、一切の邪を倒して有情を摂取するためには、かつて造るところの業障の罪をどのように懺悔し、取り除けばよいでしょうか」と問い、仏がこれに答えて告げている。帝釈は既に勝れた善因を持ち諸天の統領に至った者であり、前の寿量品の中で憍陳如が芥子粒ほどの仏舎利を得てこれを恭敬供養しようとしたのも、その功徳によって命が終わった後には帝釈となって、常楽を受けたいと願ったからである。であるのに今帝釈からこのような問いがある。文章の構成上から見ても極めて巧みで、その着想は甚だ遠大と云える。ただ単にこれだけでなく、この経が大梵天王や四天王や堅牢地天等に対して説くところの中に、皆微妙な意味のあることを感じ、能く小乗を大乗に溶解して世法(世間のしきたり)を仏法に近付けるのを感じる。依空満願品第十では、如意光耀天女と大梵天王との問答の後に、宝光耀善女天が女身から梵天の身に変化するとある。これもまた法華経の提婆盆で龍女が男子に成って、舎利弗が驚嘆した事と通じ合う。四天王観察人天品第十一や四天王護国品第十二などでは、四天王等が、金光明経の功徳を受けるとともに、経を恭敬信受(信仰)する人や王や国土を護ると説く。「四天王等は皆勇健誠実で通力自在であり、必ず金光明経を信じる者を擁護するであろう。金光明経は正法であり、正法を擁護するのは我等の願うところであって、これによって我等もまた大利益を得るのである」と断言する。このようなことは仏教の普及においては普通のことで珍しくないが、国家に関することが強調されているのがこの経の特色である。王法正論品第二十では堅牢大地神女が仏に礼をして正法治国の要点を問う。仏は過去世の力尊幢王の子の妙幢のために説いた伽陀(偈)を挙げて説く。伽陀の主旨は大梵王の教えを伝える。大梵王の教えは善を修めて悪を除けば諸天の護持を受ける。そうでない時には諸天に護持されずに悪報を受けると云うのである。その中で少し尋常でないのは、「国人が悪行を造って、王がこれを捨て置いて禁じないのであれば、これは正理(正しい道理)に順っているとは云えない、取捨は正に法のようであるべきである。もし悪を見て阻止しなければ非法が蔓延し、ついには奸詐(かんさ・悪計)が王国内に日々増加しよう。王国内の人が悪を造るのを見て阻止しなければ、三十三天衆(帝釈天を主とする三十三の神々)等は皆怒りの心を生じよう。これに因って国政は乱れ、諂偽(てんぎ・おべっか)が世間に行われ、敵国に侵され、国土は破壊され、住居及び資材・器具・蓄財などは皆散失し、いろいろな諂誑(てんきょう・騙し合い)が生じて、更に互いに侵奪し合うであろう。正法によって王を得ても、その法が行わなければ国人は皆破産し、象が蓮池を踏みにじったような有様になろう。」と云う。また云う、「自国内に非法を行う者を見たら、法に拠って正しく罰すべし」と。また云う、「国を治めるには正法を用いて行い、諂佞の者が居るのを見たら正しく法に順って治めよ」と。また云う、「害の中で極めて重いものは国位を失うことで、これ以上のものは無い、これらは皆、諂佞の人に因って起きる」と。また云う、「もし諂誑の人が在れば、まさに国を失うであろう、これによって王政は乱れ、象が花園に入ったように乱れるであろう」と。諂佞の人を避けるべきであることを極言し、悪が未だ盛んにならないうちに取り除くべきであると強調している。次の善生品第二十一もまた、この王法正論品の余波別流であって、金光明経を信奉する者が国土安穏・人王栄福になることを説く。およそ仏教やバラモン教などにおいては、天地山河一切の万物には之を司る者(神鬼)が在って、神鬼はそれぞれ人のような感情や知識や考えを有する者であるとするのである。であれば、現世の人間の信仰や思惟や行動の正邪善悪は直ちに天地山河に影響して、天地山河などの神鬼は直ぐさまその反応を人間に与えようとする。このため金光明経に限らず法華経や大般若経などの大経は、皆信仰の中心の標準として正信(しょうしん・正しい信仰)を一切の者に与えるものなので、この正信に帰依して安住する者は、互いに喜び、法を護って、そして向上の一路を成し遂げて、これ以上無い成仏の地に至るとするのである。それぞれの経には仏や菩薩や天部や諸神鬼が現れて、自分がその経を信受(信仰)するのは勿論であるが、その経を信受する者に対しても種々の利益を与えると誓うのは、同じ正信に安住する者が語る当然な同感の表現であり、これが即ち正信がもたらす感応の秘義なのである。感応の秘義が理解できないときには、経を信仰すると現世の利益がもたらされる、という理由が理解できないであろうが、感応が嘘でないと知ったときには、疑うところなどあるはずが無いのである。天地山河等は、本来が全ての生命(いのち)ある者が仏果を成就するところのものだからである。それなので正信には善の感応があって直ちにその果報がやって来、妄信邪悪には悪の感応があって忽ち苦難が来る。法華経を信じない時には苦難が忽ち来るだろうと云い、正しきを立てて国を安んずべしと云うようなことも、この感応の秘義に拠るものとして、法華経を信じることをこれ以上ない正信であるとしたのである。金光明経においては金光明経を信じることを正信とする。正法正論品や善生王品は折に触れて王法を説く。宝積法師は王の要請を受けて、許(承諾)して為に此の金光明経を説く、の二句によって金光明経に王者の帰依すべきことを説いていることが知れ、また力尊幢王の子の名が妙幢となっていて、この経の発端者の名と同じなことから見ても知ることができる。(③につづく)
注解
・妙幢菩薩:地蔵菩薩の異名。
・憍陳如:釈迦の最初の弟子。
・梨車毗の童子:リッチャビ族の童子
・仏舎利:仏(釈迦)の遺骨。
・涅槃の本義:涅槃とは一切の煩悩から解脱した不生不滅の高い境地。仏は法身なので入滅しない、涅槃に入り霊鷲山に常住して教えを説く。涅槃の示現は衆生成熟の手段である。
・般涅槃:入滅。
・小乗の説:小乗仏教の教え。
・帝釈天:天部・天衆・天人で表される天界の住人で仏教の守護神。諸天の統領である。
・大梵天王:帝釈天と共に仏教の守護神とされる。
・四天王:帝釈天に仕えて東西南北の四方を守護する神々。東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天の四神。
・堅牢地天:地をつかさどる女神であって、これが仏教に取り入れられたものである。堅牢大地神女と呼ばれる場合もある。
・三十三天衆:帝釈天を中心とする三十三天部。
・感応の秘義:信心が神仏に通じ、神仏がそれに応える不思議な働き。
・宝積法師:金光明最勝王経善生王品第二十一に出て来る。
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