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事実の解釈はいくらでも変えられる。

2016年02月16日(火) Tweetまとめ

過去を無かったことにしてはいけない。

事実は変わらない。変えようがなくても、その事実の解釈は後からでもいくらでも変えられる。新しい認識によって事実には違った解釈が与えられる。自分が信じたストーリーが、自分にとっての「真実」だ。これは、考えようによってはとても危うい。つまり「信じたいものを信じる」に他ならない。

西洋の知性が「疑問」を重んずるのは、このせいじゃないかと思っている。自分が信じたいものは、本当に信じて良いのかを疑い検証。そして、どうやっても疑えないものを土台にして、考えを積み上げていく。

「パラダイムシフト」は、この土台が揺らぐということ。だから、抵抗されるし憎まれるし、その分破壊力が大きい。

私はおそらく印象として、この不安は今の私の「土台」が揺らいでるからじゃないかって思っているんだ。それが何かはわからないけど。私の中で「正しかった」認識が揺らぎ始めて、それが抵抗してる、或いは不安になってる。だから、不安は私の中から湧いてきてるし、なんとかできるのも自分だけ。

いま、敵が居ない。自分の進むべき道を、自分で見つけないといけない。そしてそれは、とても不安。敵がいるということは、それだけで自分の存在証明になっていた。他人に依存することなく、自分の存在を確かめるのには、「敵」は簡単で便利な存在だ。

自分の存在を、なんの根拠もなく信じないといけないからね。でも、根拠なんて無いさ。道は幾つかあると思う。自分の存在意義を、例えば子供とかに投影すること。これは一番簡単だけど、ただの問題の先送りのようにも思える。自分は価値があると、なんの根拠もなく信じること。これはこれで結構難しい。

「自分にはなんの価値も無い(どんな価値があるかわからない)けど、まず存在している」ことを受け入れること。そんな方向もありうる。だって、居るんだもの。多分、私はコレを選んだんだと思う。自分の価値なんて、わからない。でも、居る。

価値があるかどうかわからないなら、もしちょっとでも何かを残せれば、それは凄いじゃないか。「居ていい」も「良くない」もない。だって、居るんだから。誰にもそんな事を云々する資格はない。だって、居るんだもの。

「存在している事を、無かったことにしてはいけない」のなら、「今ここに存在している自分を、否定することはできない」

価値があろうがなかろうが、罪深かろうが善行に溢れていようが、なにより「居る」のよ。なら、居るという事を受け容れて、その上でそこにまつわる諸々のことも受け入れるしかないのよね。まあ、諦めの境地だと思うよ。一種の。別の言い方をすると、「覚り」ともいう。


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