平手友梨奈という魅力…パフォーマンス

欅坂を好きになったと告げると、よく「何推し?」と聞かれた。
アイドル嫌いだった私にとってよくわからなかったのが、この推し文化だ。正直、今でもちゃんとわかっていなくて、ただのファンじゃダメなのかな…と思ってしまう。

欅坂最大の魅力ともいえるパフォーマンスについて語るなら、推し立場を明確にしたほうがいいと思うので遍歴を軽く紹介しときます。ちなみに、特定の人ではなくグループ全体が好きなことを、箱推しというようです。

てち(平手友梨奈)きっかけだから、てち推しか→他の子も面白いし、魅力的でいいなあ…箱推し?→てちのいない「ガラスを割れ」を見て、あ、てち推しだわ→てちのいる「ガラスを割れ」を見て、すげえ! やっぱ欅すごい! 痺れる! え、箱?

てち推し→箱推し行ったり来たりを繰り返し、2019年の全国アリーナツアー横浜アリーナ公演に参加したことで、箱推しにはなれないと痛感。ライブが始まる前は、これで箱推しになれたらいいなあと思ったけれどムリだった。脳に刻まれてしまった。

てち推しだけど、てちだけいればいいというわけではないので、てち推し兼てちのいる欅推しということにしとく。そんなのどうでもいいですね。はい。

今回は、てちの、欅のパフォーマンス、どうして、どこが好きなのかを書きます。前回よりも長いです。

前と同じく、公正ではないし専門家でもなんでもない、オタバカが思ったことに過ぎません。絶対こうだ!というようなものではないので、不快に思ったら、遠慮せず読むのをやめてください。


MVで存在し、

パフォーマンスで成長し続ける曲の世界


センター、エース、10番……欅におけるてちの存在を語るときに使われる言葉。どれも合っているけれどしっくりこない気がしていた。

私にとって欅のてちは、楽曲の主人公だ。
いや、同じじゃんって声がしそう。似ているけど、やはり違うと思っている。センター、エース…立ち位置や結果によって変わるものではなく、何がどうなろうが変わらない。調子がよかろうが悪かろうが、立ち位置など関係なく、主人公としてそこにいる。

私がこう思うのは、まず音源を聞いて、次にMV、そしてテレビやライブでパフォーマンスと、丸ごと応援できたのが「風に吹かれても」以降だったからかもしれない。いわば、てちが「アイドルらしくしなきゃ」とがんばっていたときをリアルでは見ていない。だからだろうか、笑顔のてちや顔を上げているパフォーマンスでなければ!と熱望しているわけではない。

「風に吹かれても(以下、風ふか)」のテレビパフォーマンスは、最初笑顔だったものの、次第にうつむくことが多くなっていった。その頃はまだネットを頻繁に使っていなかったので知らなかったが、心ない声も多かったと聞く。

それが不思議でたまらない。
私はうつむいてパフォーマンスをしているのを見ていて、風ふかの僕が苦しんでるとしか思わず、むしろ、よりリアルに「僕が生きている」と感じた。

どんな主人公だって悩んだり迷ったりする。それがない、ただ強いだけの主人公は平面的で説得力がない。

風ふかでいえば、「まあ、なるようにしかならないし」と気楽にいこうと思ったすぐ後で、「いやそんなのムリ。何とかしたい」と反論したくなることもあるに違いない。トゥルトゥットゥーしたいけど、できない。

1曲のパフォーマンスでも感情の動きが見えるからこそ、「この曲の主人公が生きて、表現している」と余計に目が離せなかった。それは、音だけだった楽曲が、MVによって曲の世界や人物たちが存在し、パフォーマンスの度に生命力と説得力を持って成長しているようだ。

月刊カドカワ20180918月号で、デビューからずっと振り付け演出をしているTAKAHIRO先生が、てちのパフォーマンスの魅力、主となるものについて「僕(私)の気持ちに出会うことができた、今日は曲の途中で少し、僕(私)が遠ざかってしまったから…と自問自答を繰り返し、この歌詞、曲の世界観をどれだけ伝えられるか、歌の中で生きている人物にちゃんと出会えて、その人物になれたか(抜粋)」だと語っている。

曲の人物を届けること、その時々の気持ちを届けることに尽きる。そこには自分が「うまく踊れた」とか「カッコよくできた」という物差しはない。だから、人物の気持ちに出会えたときだけでなく、下を向こうが体が思うように動かないときも、主人公として存在しているように見えるのだ。

映画『響』の月川監督が雑誌やテレビ、メイキング映像などで、てちの演技について繰り返し言っていた「演じるのではなく、響として存在していた」という言葉。激しく頷いたのは言うまでもないし、音楽であろうと演技であろうと変わらない姿勢が本当にてちらしい。

今、自分が出会える、リンクできる主人公を全力で届けようとしている。
それがたとえ10%であっても、取り繕うことなくその10%で感じさせてくれる。もし、10%だけなら…と主人公の今を見せるのではなく、カッコよく踊り、わざとらしいキメ顔をして80%の出来をめざしていたら安定しているかもしれないが、ここまで「次はどんなだろう。まだ苦しんでるかな。少し楽になってるといい」と固唾を飲んで見守ることはなかった。曲の世界、人物たちが生きていると感じることもなかっただろう。


他をも巻き込み、輝かせる主人公


こう書くと、完全なるてち推しでしかないじゃんって感じだけど、そうでもない。特にパフォーマンスについては、「てちのいる欅坂に痺れる」としか言えないくらい、好きだ。

それは、いつも以上にメンバーが輝いて見えるから。
それぞれの個性が爆発し躍動していて、曲の中でどう生きている子なんだろうと想像が広がった。そして、それぞれが生きはじめてバラバラになりそうなところを、曲の世界にとどめてまとめていたのが、てちなのだと思う。

曲に潜むもの、異様さだったり不気味、危うい儚さ…そんな綺麗事ではない、でも、本質的な部分を主人公が担っていたから、曲の世界観、人物たちがブレずに存在していた。テレビでは、てちを含めて誰かのアップではなく全体を映してほしい。全員の動きを、生きている姿を見たい! そう思うくらい、欅坂が叩きつける曲の世界に惹きつけられた。

それはてちが調子いいときでしょ?と言われそうですが、ちょっと違う。少なくとも、私にとっては違う。

てちが主人公と出会えない、中々リンクできなかったり、体に問題を抱えているとき、「みんなで守るよ!」と言わんばかりに一致団結して、戦闘モードに入る。その姿は新たな物語を見せてくれているようでゾクゾクした。

私がそう感じるのは、単にてち推しの贔屓目なんかな。
推しアイなのかもなあと思っていたが、やはり月刊カドカワ20180918月号に載っていた『響』の助監督後藤さんのコメント、「平手さんは自分自身を確立しているだけでなく、周りを巻き込む力も持った、実に稀有な表現者(抜粋)」に、それ!!と声をあげてしまった。

それを身をもって感じたのは、3rdアニバーサリーライブ武道館公演だ。
先に行われた楽しいお祭りのような大阪公演とはうってかわって、欅の真髄ともいえるカップリング曲を多く披露し、「これが欅のライブだ! さあ、どうする?」と問うような世界観。渾身のパフォーマンス。前提として、2期生も含めてみんなすごかった。ペンライトを振るのも忘れて見入ってしまう圧倒されるライブで、何度も鳥肌が立った。

ただ、その中でも、てちは異彩を放っていた。
私はステージサイド席だったので、肉眼で見られるのは斜め後ろからだけ。モニターが見やすい位置とはいえ、表情や正面からのパフォーマンスを見ることは絶望的な席。正直、ガーンとなったけれど、ライブが始まりしばらくしたらそんなの飛んでいった。

てちの背中を見たときから、一変する。
同じ衣装を着て、次々に位置が変わるフォーメーション。顔も見えず、誰がどこにいるのかなんてわからない。そんな中でモニターではなく、ふとステージに目を向けたとき、表情が変わり続ける背中に目が吸い寄せられた。

輝いていたとかそういうのではない。
ただ、ひとりだけ背中から曲の人の感情が溢れている。弱気になってる…あ、決意した! そんな感じ。といっても、どんな感じなのか自分でもよくわかっていないので、伝わらないですよね。すみません。

最初は誰の背中だろう。きっとあの背中が主人公だろうからてちかな、もんちゃん(鈴本美愉)もあるなあと思いながら見ていた。それがてちだとわかったとき、ひとり、違う意味タイミングで歓声を上げてしまった。本人も見られている意識がないであろう後ろ姿ですら、その曲の人として存在している。

それからはモニターよりも、みんなの後ろ姿を目で追っていた。
我ながら、すぐそばに大きなモニターがあるのに、顔もパフォーマンスもよく見えないステージに釘付けって重症だと思う。

ただ、くるくる変わる表情と連動するようにステージ全体の世界、人物たちが変化しながら突き進んでいく。それはストーリーが交錯して進んでいくオムニバス映画のようにも、1話完結で綴られるドラマのようにも見えて、ああ、欅坂が好きだという思いでいっぱいになった。

それじゃあ、てちはずっと主人公でいなきゃいけないのか。それ以外はないのか。
そんなことはないと思う。てちが主人公ではない、「手を繋いで帰ろうか」や「キミガイナイ」、「I’m out」、マルチセンターでそれぞれの色が出る「東京タワーはどこから見える?」も曲の世界がしっかり息づいていて、大好きだ。特に「東京タワー~」はテレビで披露してほしいと思ったくらい好き。昨年末の音楽番組で披露しなかったのが残念でならない。

いつか見てみたいと密かに夢見ていたのは、ゆっかねん(菅井友香と守屋茜)を主人公にした、少し大人の表題曲。ゆっかねんの後ろで、お姉さんたちの背中についていくてちともんちゃんの姿を見たかった。今までの「僕」ではない違う人物を見せてくれただろうな、もしかしたら、ふわふわとしたタンポポのような「私」かもしれないと想像させてくれる。


天才ではなく、努力の人


てちのパフォーマンスは「天才」や「才能」といわれることが多い。
確かに元々持っている感性や素質は大きいだろうが、それよりもあらゆる努力ができる人なんだと思う。

MV撮影時に歌詞や人物の気持ちについて何度も話し合ったり、曲の世界に合わせてメンバーと一緒にいないようにしたり、膝が赤くなり腫れるまで何度でもやり続けたり…。そういう目に見える努力のエピソードだけでも、てちの曲を理解して表現しようとする覚悟を感じて「すごい」しか出てこないが、それだけではないだろう。

まず、感性を磨き伝える努力。
そんなの努力じゃないと言われそうですが、継続するのは並大抵なことではない。『響』の撮影中に、てちがサプライズゲストとして登場した秋元さんのラジオで、「平手はMVやダンスなどを調べて、これ面白くないですかと送ってくれる、曲の感想を自分なりのイメージで伝えてくる」と語っている。ちなみに秋元さんは欅坂の1期生全員とLINE交換している。

常にアンテナを張り、キャッチしたものを言葉にして伝える。
誰でもできそうで、実は難しいことだ。頭の中にある、ぼんやりとした「こういうの面白そうだなあ」というイメージにヒットするものを調べて、たくさん見たであろう中から「これ!」と選んで他人に見せるという行為は、思っている以上の時間と労力が必要だ。にも係わらず、すぐに答えがでるものではないため、そうした努力をやめるのはあまりにたやすい。

でも、この「表現したいこと」の欠片を集めて伝え続けることは、自分の中に蓄積してパフォーマンスをする時の基盤となるだろうし、周囲の人と話し合う機会が増えることで、自身だけでなくまわりの創作意欲を刺激するに違いない。てち自身、秋元さんのラジオ内で「よりよくするために話し合っている時間が好き」と言っている。


そして、コツコツと積み重ねる努力。
てちのパフォーマンスで目を奪われるのは、体幹のブレなさ、指先、首など細部の美しさ、髪や服、時間までも操っているように見えること。どれも地道なトレーニングなしにはできない。

元ダンサーの知人に欅坂の動画を見せたときに、「魂を揺さぶる表現だけじゃなく、努力を惜しまない人なんだろうね。これは好きになるわ」という感想が送られてきた。彼女は「本当にダンスをやりたいならステップを覚えるよりも、アイソレーションを完璧にやりなさい」と言い続けている。

体幹もダンスの基礎である体を部分的に動かすアイソレーションも、才能は関係ない。
ただ、日々、愚鈍なまでにコツコツやったかどうかが結果として現れる。しかも、それは他人はもちろん、自分にも結果が見えづらい努力だ。だからこそ、その人の姿勢が最も出ると思っている。単なるスポーツクラブのスタジオプログラムではあるけれど、私も数年間ダンスをやっているので実感している。コツコツやることでしか、体は動かない。

ただ大きく激しく動くことは、振りが頭に入ってさえいれば力技でできる。
でも、見せたい部分だけを動かし、一瞬、時が止まったかのように体をためて、何事もなかったように戻る…。こういう見せ方はバランスを支える軸と細かくコントロールするアイソレーションがなければできない表現だ。

てちのパフォーマンスは地道な努力の上に成り立っているとしか思えない。
ケガ以降、力任せのキレではなく、しなやかな動きや指先の美しさ、わずかな角度で見せる表情に磨きがかかったように見える。

楽曲の世界に血を通わせ、体温や息遣い、感情の変化すら感じさせるパフォーマンスは、絶え間ない努力によって体を作り、ただ曲の世界を届けようとする一途な思いがひとつになって生まれるのだろう。

と書いていて、前回「パフォーマンスだけを見ていたら、“存在が好き”とまでならなかったかもしれない」と書いていたことを思い出した。そうか。自分を届けているわけではないてちのパフォーマンスは、平手友梨奈であって平手友梨奈ではないのだから、当たり前だった。

パフォーマンスが大きな魅力であることは間違いないけれど、それだけでてちを知ったことにはならないし、きっと本質は別にある。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?