見出し画像

長い長い何十年の始まり

母子共に健やかに退院した日は、満開を少しすぎた頃。
今年の桜はあっという間に咲いたらしい。3月の終わりに様子を見に行った時は、まだほんの少し咲いていただけだったのに。

病室のテレビで、花見の様子を連日放送していた。病室の窓からは、桜の木はどこにも見えなかった。

帰り道、桜並木のある道を通ってもらった。
桜だよきれいだねと、彼女に話しかけた。
彼女は初めてのチャイルドシートで、すやすやおとなしく眠っていた。時折り呼吸を確認してしまうほど。

春を待つ気持ちと一緒に、彼女の誕生を待っていた。
これから毎年、満開の桜と共に歳を重ねる彼女。
とっても、すてきな季節に生まれてきたね。

マンションには家族3人で帰ってきたけれど、彼は午後から仕事に向かった。
生まれたばかりの彼女とふたりきりになったわたしは、急に込み上げてきた不安でいっぱいになり、ひとしきり泣いた。
家は、今までよりずっと静かだった。
彼女の泣き声と、わたしの語りかける声だけが響く。

夜、病院とは勝手の違う生活にわたしは疲れていた。
リクライニングできない布団、移動できないベビーベッド、厚すぎる授乳クッション、レンジでの哺乳瓶消毒、遠い洗面台。

まだまだ夜はこれから、1時間半後には次の授乳が待っている。
落ち着かない気持ちのまま、久しぶりに彼と2人で布団に入る。彼の体はいつでも温かい。
彼は言った。

始まったね、長い長い子育ての何十年が。

人生で忘れられない瞬間が訪れたなと、確かにそう思った。
同じものを見ているはずなのに、彼は彼自身の感性から、わたしとは異なる言葉の紡ぎ方をする。

そうか、彼女は1週間前に生まれていたけど、本当の始まりは今日だったんだ。
もう後戻りできないな。いくら不安でも、もう戻れない。
これから長いよ。まずは今日、いちにち無事に過ごせた、おつかれさま。

我が家にひとつ呼吸が増えた日、ようこそ、待っていたよ。
不安とわくわくが同居する始まりの夜、わたしも、彼も、程よく疲れ果てていた。わたしたちは、次の授乳に備えてあっという間に眠りについた。


***

今しかないこの時間を、大切にするって、じゃあ何をしたらいいんだろう。

とにかく、五感で彼女を感じてみる。
腕の中で眠る彼女の体温は、高い。わたしの服をきゅっと握りしめている。
寝息は静かで、時々息をしているか確認してしまう。
まつげが長くて、色が白くて、ほっぺはさながら大福である。
ことあるごとに頭のにおいを吸ってしまう。何とも言えない、こうばしさ。
でもな、残念ながら食べられないのだよ。

これでいいのか?
毎晩、寝かしつけが終わったあとに不安になる。
どれだけ彼女と向き合っても、まだまだ足りないような、もっと大切に毎日を過ごさないといけないような、焦る気持ち。

とはいえ、
家族が一人増えた生活は私たちの新しい日常であって、毎日を特別に過ごしてたら疲れちゃうよな、と少し冷静な自分もいる。

”大きくなったな”と、”まだまだ小さいな”
”できることが増えるのが楽しみ”と、”成長しちゃうのがさみしい”
”毎日が特別”と、”平穏な日常”

いったりきたりの毎日。
それでも月日は同じペースで流れていって、今日も一日が終わりそう。
今日もたくさん、笑顔にさせていただきました。

***


桜が満開になる頃に彼女が生まれてから、季節がいくつか変わった。
ほとんど家の中にいて知らぬ間に終わっていた春、
暑くなるのが早くて驚いた初夏、
かえるの合唱ばかり歌った梅雨、
気付けば夏の盛り、夕涼みをする毎日。

もう何枚の写真を、何時間の動画を撮っただろう。

でも、過ぎた季節の写真は見られない。
もう戻ってこない、本当に小さかった彼女を思うと涙が出そうになる。まだ今じゃない、感傷的にはなってられないよと写真フォルダを閉じる。
これはどんな感情、うまく言葉にできないけれど。

最近ようやくnoteを書く余裕が出てきました。
産後は不安な気持ちになると、とにかく手元のノートに書き殴っていた。するとどうだろう、気が鎮まって、不安な気持ちも少しだけどこかへ飛んでいく。
アウトプットするって大切だとしみじみ感じました。

これからは少しずつ、noteでその時その時のわたしを残していこう。
書きたいことが浮かんでは、すぐに流れていってしまう。そしてまた、心に留めておきたい出来事が起こる。
それくらいに新しい生活はきらきらと、けれど穏やかで、そして発見に満ちている。

みなさん、またすぐに。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?