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メギドのストーリーを追う上で把握しておきたい表現についての考察

スマホ向けRPG『メギド72』のストーリーは、音楽・子弟関係・家族・拷問・種族間の紛争など実に幅広い題材を扱いながら、ある一定の統一感を持った物語が展開されています

しかし、この統一感は一体どんな理由で生じていて、そもそもどんな事を狙って与えられているのでしょうか?

僕は、この統一感について繰り返し登場している表現があることによって生じていると考えており、またその目的について、対比構造によって「ある問題」が本質的には無意味な対立である事を示そうとしているのではないか、と考えています。

そこで本noteでは、この繰り返し登場する表現について、それが男女の対立を扱った二項対立であることを指摘し、更にその目的が脱構築にあることを指摘します。

以降『メギド72』メインストーリー(シンボル116)までの内容についてネタバレが含まれています。また、イベント『さらば哀しき獣たち』・オリエンス(ラッシュ)キャラクターストーリー1話・『彼の者、東方より来たり』についてネタバレが含まれています。ご了承ください


男女の対立

シバの女王とソロモン王

まず前提として、『メギド72』のストーリー上で最も大きな2者間の対立にハルマとメギドの対立があります

彼らの対立は天使と悪魔の対立に喩えられていますが、これは彼らの種族名であるハルマ・メギドが新約聖書『ヨハネの黙示録』に登場する地名ハルマゲドンと、さらにそこから派生して生まれた天使と悪魔の最終戦争の名前として考えられている単語ハルマゲドンに由来しているからです。

ハルマゲドンは「ハル(丘)・メギド(地名)」という二つの単語の組み合わせによって作られた語で、メギドの丘を意味します。

彼らの対立は個々人間の対立として現れていますが、同時に種族間・世界間での対立でもあります。

これはハルマニア・メギドラルという世界そのものの対立を、世界という概念がそのままでは争うことは難しいので、ハルマ・メギドという種族がその対立の代行者として争い、さらに種族という概念がそのまま争うことは難しいのでその代行者として、ハルマ・メギドである1個人あるいは1集団が対立するという形をとっているのです。

つまり、彼らの対立はその集団を代表する個々の存在によって、言うならば代理戦争として成立しています

そして、ヴァイガルドでの活動に関する彼らの代表者としてシバの女王と主人公ソロモン王の存在があります。

つまり、ハルマとメギドの対立は、それをより具体的な形で扱う場合、シバの女王であるアミーラとソロモン王であるグロル村の少年の個人的な男女の対立ということになるはずです。

そして、アミーラとグロル村の少年は、立場上の対立や意見の相違などによってすれ違う場面も存在しますが、彼らの間には一定の信頼関係が築かれており、彼らの関係は「対立する関係であっても特定の目的において同じ目線に立つことが可能であること」を証明しているはずです。

また、メインストーリーシンボル108「カマエル」を見て分かるように、この両者間の争いは場面によっては偽装された争いです。

毛玉派と鱗玉派とベバル・アバラム

偽装された争いといえば、イベント『さらば哀しき獣たち』が重要といえるはずです。

というのも、イベント『さらば哀しき獣たち』では、幻獣たちがヴィータの生活を模倣して1つの村を形成していました。

彼らは幻獣からメギドへと変化した存在であるベヒモスに憧れを抱いており、自分たちもそのようになりたいと考えていました。

そして、彼らは毛玉族と鱗玉族の二つのグループに分かれて対立し、無為な闘争を繰り返していたようです。

『さらば哀しき獣たち』

この対立は、ベバルとアバラムがエリダヌスに匹敵する兵器を掘り起こすために幻獣の村にやってきた事によって発生しており、発掘に協力することでメギドラルへ帰還しなければならないのを防ぐために、偽装された嘘の争いでした。

ですから、毛玉派・鱗玉派の幻獣はお互いに争う理由を本当は持っていないということになります。

また、この争いを終わらせることで、任務を達成するため、毛玉派と鱗玉派それぞれの代行者として、ベバルとアバラムが戦闘を指揮していました。

『さらば哀しき獣たち』

しかし、実際には2人が対立しているわけではなく、幻獣たちの戦争を終わらせるために、対立に加担しているだけでした。

このように、幻獣たちの間だけでなく、その代理人であるベバル・アバラムの間にも、争う理由は実際には存在してないのです。

そして、この争いの原因となる出来事として、チリアットとオリエンスの対立があります。

しかし、こちらに関しても本来は2人の間にある争いではなく、マラコーダによって仕組まれた争いでした。

ですから、チリアットとオリエンスの間にさえ、本来であれば争う理由は存在していません

オリエンス(ラッシュ)キャラクターストーリー・1話

また、マラコーダがチリアットとオリエンスを利用して戦争させた理由も、本人たちの間に憎悪や問題があるのではなく、社会システムによって争い合うように仕向けられているからなのです。

このように『さらば哀しき獣たち』では、争う者同士の背後に別の争う者がいて、さらにその一つ一つを紐解いていくと、その当人同士に恨み合う理由などはなく、争うように操られた結果であることがわかります

(余談ですが、知性のある幻獣を指す単語「プーパ」は蛹を意味するPupaに由来すると考えられます。そして英単語としてのPupaはラテン語のPupa/未成熟なもの・人形・女の子に由来しています)

家の対立とプロメテウスとロキ

また、男女の対立を描いた物語としてイベント『この言葉、君に届け』があります。

このイベントではロッソ家とアッズーロ家の対立が描かれていました。

(常設化されていないので、一応、詳しくは触れませんが、特に重要なエピソードだと考えているため、紹介しました。常設化後に更新する予定です。)

呉越同舟

また、特殊なイベントである「東方編」でも男女の対立が扱われていました。

例えば、「ソロモン王東征録・序『彼の者、東方より来たり』」では越都メイヨーと呉都ファデンの対立が扱われています。

この両者の対立はその地域での古くからの偏見によるもので、偏見の理由も「河川」という共有資源を通じて、お互いがお互いを憎むように(環境によって)仕向けられていました。

一方で、この二つの憎み合う都市は「呉越同舟」と呼ばれる語の由来となっていると物語の中で語られています。

これは「対立する関係であっても特定の目的において同じ目線に立つことが可能であること」という、シバの女王とソロモン王の関係が示していることと同じ事を表しているように思えます。

また彼らの対立は「織物」と「渡し守」の対立であり、一見すると男女の対立とは違うように思えますが、それぞれの地域に関連したメギドが「アミー」と「サレオス」である点から、ハルマとメギドの対立における代表者がシバの女王とソロモン王であることをなぞっていることが分かるはずです。

(この対立と融和というテーマは「東方編」全体を語る上でも重要だと思うので、今回説明の中で取り上げることにしました。)

以上はあくまでもごく一部の例であり、メギド72を巡る物語おいて、その多くが男女の対立を扱っていたり、比喩的にそれを扱っていると、僕は考えています。

皆さまも「あのエピソードも……?」と感じるエピソードがいくつもあるのではないでしょうか?

アンドロギュノスなメギドたち

物語の外核へ

そして、こうした男女の対立構造を扱っているのは何も物語だけではありません。

そもそもメギドという存在が男女の対立を比喩的に扱った存在なのです。

メギドたちは幻獣の発生時に、その存在を乗っ取る形で発生しています。

また、追放メギドたちは追放というプロセスにおいて、ヴィータの魂と融合して、メギドとしての意識を覚醒させる傾向にあります。

二つの存在の交わりによって生まれる

彼らのこのような発生のプロセスは、生まれてくるためにある存在とある存在が交わることが必要になる……と言い換える事が可能であり、これは私たちの誕生にも必要な出来事です。

つまり、彼らの発生プロセスは受精のアナロジーなのです。

二つの存在の交わりによって生じるという点で受精と同じ構造を持つ

そして、こうしたメギドの発生は男女の交わりのアナロジーであると同時にギリシャ神話に登場するヘルマプロディートスのエピソードも意識していると考えられます。

ヘルマプロディートスは美しく、若い男性の神様で、15歳の時に放浪の旅に出ます。


ヤン・ホッサールト作『サルマキスとヘルマプロディートス』

この放浪の旅の途中、ある泉に立ち寄るのですが、そこで水のニンフであるサルマキスは彼に惹かれます。

彼女は彼を誘惑しようとしますが、うまく行かず、諦めたフリをしてその場を去っていきます。

誰もいなくなった事を確認したヘルマプロディートスは服を脱いで、泉に入ろうとするのですが、サルマキスは木陰からかけだして泉に飛び込んだ彼を無理やり自分のものにしようとします。

そして、彼女は自分たちを離れ離れにしないでほしいと願い、その願いは叶えられて、二人の体は融合して、言葉通り一心同体になります

両性具有となったヘルマプロディートスはその事を恨み、彼が水浴びをした泉の水に触れたものも自分と同じ目に合うように願い、その願いもまた叶えられた、と語られています。

魂が融合することで、それまでの2人ではなく、新たな一人の魂となる点で、ヘルマプロディートスとサルマキスのエピソードはメギドたちの魂のあり方を考える際に絶対的に無視のできないエピソードであると思われます

また、プラトンの著書『饗宴』も『メギド72』にとって重要であると考えられます

というのも、登場人物であるアリストパネースは「人間は元々二つの頭、四本の手を持つ球の形(στρογγύλον/round)の両性具有存在」(アンドロギュノス)だったと語っており、「神々によって男女に切り分けられたために対となる伴侶を求めて恋をする」と考えました。(また、これは男と男、女と女の恋愛も同じだと語られています

かつて球だった存在……?

さらに、この『饗宴』に関する話はその文脈から大きく離れて引用されており、恋人を「半身」と呼ぶようになったのもこの表現に由来します。

イーヴよ、わたし自身の像(すがた)を示す美しき者よ、愛すべきわが半身よ!

ミルトン『失楽園』book5

同感です。私たちは、自分よりも賢くて優れた、もっと値うちのあるもの――友だちとはそうしたものであるはずですが――が手を貸して私たちの弱い過ちの多い性質を完全なものにしてくれないとしたら、まだ半分しか出来上らない未定形の生きものなのです。

『フランケンシュタイン』letter4

そして、この「半身」という表現は、メギド72の楽曲(シンボル87戦)"愛しき「半身」"としても登場しています

『メギド72』がプラトンの『饗宴』での人間の原初的なイメージを意識していると考えられるのは、この楽曲の存在があるからです

また、こうした設定面でのアンドロギュノス(両性具有)は、メギドたちの見た目の面でも反映されています。

ヴィータ体とメギド体

男であり、女でもある

ヴィジュアル的に分かりやすいのが、メギド体が女性的である人物が男性として転生しているケースで、これはパイモンやサレオスが該当しています。

また、特殊な例として転生前のヴィータ体と転生後のヴィータ体が違う例として、ダンタリオンが存在しています。

二者間の男女対立

互いに互いを埋め合える関係

メギドが二対となっていて、そこに男女の対立があるケースも存在しています。

最も分かりやすいケースはベバルとアバラムでしょう。2人については毛玉派と鱗玉派の対立でも扱いました。

ヴィータ体内

対照的な色が意図的に使われている

メギドたちのヴィータ体には、対になるような的な色使いの装飾品が使われているケースが多く見られます。

メギド体内

対照的な色が意図的に使われている

ヴィータ体だけでなく、メギド体にも対となるような色使いが行われているケースが存在しています。

このように様々な要素を利用しながら、メギドたちはヴィジュアルの面で「対立する者が融合した存在(アンドロギュノス)」として描かれているように思えます。

なぜ対立は繰り返されるのか?

ここまでで確認したように、『メギド72』では根幹的な設定、各物語、楽曲タイトル、キャラクターの見た目など多岐にわたる箇所で、男女の対立を表現しているように思えます。

そして、同じような表現が繰り返されることで、却ってそこにある差異が気になり、「彼らの中に本当に争う理由があるのか?」という点について考えることになるはずです。

それぞれのケースは全く同じということはなく、それぞれに差があります。

しかし、その差によって、「その争いは仕方ない」と受け入れられることは出来ないように僕は感じています。

また、このことを考えるうえで重要なのは私たちが現実の世界で関わっている対立についてです。

私たちは当事者であるが故に、何らかの対立の中にいるとき、常識という名前の偏見によって「本当に争う理由があるのか」という問いに関してどうしても目を向けづらく、また仮に目を向けられたとしても「どうにもならない」と考えてしまいがちです。

しかし、外側から観測した場合、そこには本当の意味で対立する理由は存在しない場合が多いはずです。

また、こうした対立は「男女の違い」のように生まれ持った立場の違い、属性の違いによって生じていますが、メギドたちは「そのどちらでもある存在(アンドロギュノス)」として描かれています。

さらに、メギド72のストーリーでは、ある場面では「男」であるキャラクターが「女」になることがあります。

(また、アダムとイブに対応するキャラクターが男性と男性であるケースとして、シンボル116におけるサタンとベルゼブフの関係があります。)

立場が目まぐるしく変化していくことで、その対立の境目は曖昧なものへと変化していくはずです。

倒すべき敵は、力強いと友となり、憎悪を向けるべき対象は、その存在がなければ生きていけないようなかけがえのない存在であることが判明し、自分にとって大切なものが、却って他者の大切なものを傷つけ、逆に自らの幸福を脅かす存在が、誰かにとってのかけがえのない存在であることが描かれ、そして、息苦しい世界の中だからこそ得ることのできる幸福があることを、メギド72のストーリーは描いています。

こうした点から、メギド72が男女の対立を繰り返し描いている理由は、対立そのものを扱うというよりは、その二項対立に対して、むしろ脱構築的なアプローチをとるためではないか?と僕は考えています。

いつか一緒に輝いて

こうした表現は『メギド72』だけのモノではなく、むしろ伝統的に利用されてきているように思えます。

そして、その根底にはミルトンの『失楽園』や、『フランケンシュタイン』の存在があると僕は考えています。

とはいえ、大元となる表現だけに目を向けるだけでは、こうした引用における効果が分かるわけではありません。

むしろ、日本のサブカルチャーの文脈に目を向ける必要があるように僕は思います。

さて、日本のアニメーションの文脈においては、『新世紀エヴァンゲリオン』や、『少女革命ウテナ』の影響を無視することは出来ません。

これらの作品では、ミルトンの『失楽園』を利用しながら、二者の対立を上手に扱っているように思えます。

個別の作品に関する考察は後日に回すとして、『メギド72』との類似点として、特に『少女革命ウテナ』に関連する作品として劇場版『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』があります。

『メギド72』ではヴィジュアル面の上でソロモン王も含めて、ある特徴が際立って存在しているように思えます。

天上ウテナの男性用制服とのデザイン的な類似を僕は感じています

似た構造を持つ作品が別に存在することで、却って物語の持つメッセージはそのそれぞれの作品における際によって、際立ったものになるはずです。

そして、そのことを示すために、作中において、見た目上でも分かるような特徴を取り入れているのではないでしょうか?

感想

ここまで付き合いありがとうございました。

ということで、今回は『メギド72』の物語上で繰り返されている表現が、物語の上だけではなく、様々な個所に見られ、そして、そうした表現を繰り返すことで、対立とは何で、なぜそれが起こり、それは本当に必要なモノなのかという問いかけを描いているのではないか?という考察を扱いました。

まあ、僕の考察はともかくとして、メギドの物語の面白さを再発見するようなきっかけになったとしたら嬉しいです。

で、今回特に注目して欲しいのは、サルマキスとヘルマプロディートスと関係と、プラトンの『饗宴』についてです。

というのも今後ギリシャ神話に見られる物語の構造や、プラトンの思想と『メギド72』の類似などを扱いたかったので導入的に扱いました。

この辺の話はいつかちゃんとやりたいとずっと考えていたので、いい感じに導入できた気がします(???)

倒すべき敵の名前としてずっと登場していた「デミウルゴス」についても語れる日が近いような気がします(日が近いも何も俺が書けばいいだけなのですが……。)

今回のnoteに関して、「ここがわかりにくかった」「ここが面白かった」などの感想がある場合は、マシュマロをしてもらえると嬉しいです!(Xなどで「これ読んだ」みたいな形でこのnoteを拡散してもらえるとさらに嬉しいです……!)

今後も、様々な作品について動画・noteを公開していきたいと考えているので、興味をもっていただけた場合、Xアカウントやnoteのアカウントをフォローして僕の活動を追いかけてもらえたら嬉しいです!!!

それではまた、別のところでお会いしましょう
コンゴトモヨロシク……

参考文献

『メギド72 』
メインストーリー(シンボル120まで)・各イベントテキスト、など様々な点を参照しました。

『失楽園』
岩波文庫
英語テキストとしてはダートマス大学ミルトン読者室を参考にしました

『フランケンシュタイン』
新潮社
引用は宍戸儀一(日本出版協同)
英語テキストとしてはウィキソース(第三版)を参考にしました

『饗宴』
岩波文庫
アリストファネス(アリストパネス)の演説の部分(14)〜に関して参考にしました。

『変身物語』
岩波文庫
「サルマキス」(上 巻4)について参考にしました

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