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闇の部分だけでは存在できない
体調の善し悪しっていろんな場面に出るものでして、たとえばあいさつひとつにしてみても、体調のいいときは笑顔がついてまわるものですが、体調が悪いときはそうではありません。あいさつをしているのにも関わらず、相手に対して不愉快な気分を味合わせてしまったりします。
これはよくないことだな、と思って笑顔を添えてやってみるのですが、どうにも様になっていないらしく見破られてしまう。
これはあいさつだけではありません。歩く足音や咳払い、モノを置く動作でも体調の善し悪しというものは表に現れてしまいます。
これは体調という話をしていますが、機嫌や気分もそうです。
気分が悪いとき、虫の居所が悪いときも同じように自分では隠そうとしているのに、相手にはたやすく見破られてしまうものです。
そういった自分を指摘されたり、指摘されなくても振り返ってみたときには、あんまりいい気持ちがしないものです。
あぁ、どうしてあの人にあんなことを言ってしまったのだろうというふうに後悔したり、どんなときも平常心になれない自分はダメな奴だ、などと反省したりします。
自分自身だけでも思いつめるのに、他人から指摘されようものなら立ち直れないくらい落ち込みます。
あぁ、暗い。真っ暗闇です。
そういった自分自身の闇があります。これはそもそも体調がよくなかったり、気分や機嫌がよくない(そういった部分も体調の悪さと思うのですが)ときに特にそういった負の自分、闇の自分が出てきます。
そんなときに他人にやさしくできるはずもなく、つい冷たくしてしまったり、イジワルな言いようをしてしまったりします。
それが闇の自分に拍車をかけるのですが、そういったときにはほとんどの人が闇の方にしか目を向けていないのです。
そもそも闇とか暗いというものが存在する、現れるのにはある条件があります。その条件を満たさないと闇は存在することができません。
その条件とは、闇が存在する条件には光がひつようです。
光があるから闇があるのです。これは別々には存在できません。
そして、より強い光があるところにはより濃い、深い闇ができます。
しかも、それは光を遮るから闇ができるのです。
光を遮っているものがなかったとしたら、そこには光しかありません。
もし、闇の自分がそこにいたとしたら、その反対を向いてみたらかならず光の自分がいます。
光輝いている自分がかならずそこには存在します。
われわれはいい人の集まりですから、ついつい反省し、闇の自分に目を向けて次は失敗しないように、って思います。
しかし、ほんとうはそんなことするひつようもないくらい輝いている自分がいるのです。
輝いている方の自分にも目を向けてあげてもいいのではないでしょうか?
光と闇があるのならどちらに目を向けるのもその人自身の選択であるとは思いますが、これまで光の自分を無視し続けてきたのであれば、たまにはそちらの方も向いてあげてもいいのではないかと思います。
いろいろな法則性があるとは思いますが、この光と闇も簡単な法則だと思います。そしてその法則のとおりに輝いている自分を発見してみてはいかがでしょうか?
もちろん体調を整えることがたいせつなことは言うまでもありませんが。
本日もお読みいただき、ありがとうございます。
読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。