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型からはじまるもの

 愛光流山口初等法の第二期がはじまりました。ぼくは前回同様、準講師として参加させていただきます。

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 始発で山口へ向かいます。


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 講座は師匠山本清次先生が講師として教えてくださいます。



 愛光流の初等法では、主に整体型をお稽古します。

 型というのは、古人の考えや思想を読みといていくものでもあります。

 むしろ、そういったところを意識しないと、ただ型を行なっているだけでは、堅苦しく、動きにくくて、やりにくいだけのものになってしまいます。

 たとえば、単純に立つという動作ひとつとっても型があります。そういった型を使って立つということは、ほとんどの人は経験がないのではないでしょうか?

 みんなじぶん勝手に立って身体を壊す。よくあるのがひざが壊れた人。ひざが壊れているから立つのが難しいっていう人。

 でも、型を使って立つとひざを痛めることなく立つことができるから不思議なものです。

 型で立つということは、ぼくたちが普段やっている、立つということとはまるで違う身体の使い方をします。

 そう思うと、普段のぼくたちの動き、身体の使い方はとても画一化されたものだということに気がつきます。

 立つということも、型のパターンとじぶんが後天的に身につけたパターンのどちらかも選んで立てるということは、ある意味では選択肢のあるやり方ですね。



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 写真は、歩法という歩く技法をお稽古しています。


 ぼくは理学療法士でしたから、人間の運動や動きというものを観察して、分析して、っていうことをやってきました。それで、どこが悪いとか、どこの動きが遅いとかいうわけです。

 その動作を分析するわけですから、動作、動きがどういったものなのか、運動学的な用語を使ってダラダラと書いて、説明していきます。

 理学療法士の学生だったころは、こういったレポートに苦しめられたなぁって思います。でも、そういった経験って必要だということが、臨床に出て、わかるようになるのですが。

 そういった目からみても、この整体の型の動きっていうのが、とても表現し難い。

 それだけでも、いかにぼくたちの普段の動きが画一化され、西洋化されているかがわかるというものです。


 よく、心身っていう言葉がありますが、この心身。心と身体です。

 心と身体をわけて考えることができないということは、ずいぶんと同意される人が増えてきていると思います。心と身体は、どっちが優れているとか劣っているとかいうものでも、どっちが先でどっちが後というものでもありませんね。

 
 単純な例だと、風邪をひいて、体調が悪いときにはネガティブな発想になりやすいでしょうし、温かい部屋で毛布にくるまったりしていると、安心した気分になる。気分がすぐれないとおなかが痛くなったりもしますし、緊張して眠れないといったこともあります。


 心と身体は切り離して考えるほうが無理がある。


 そうだとすると、画一化された動きしかできないぼくたちはおそらく、画一化された心をもっているんでしょう。


 そこには自由があるようで自由がない。


 そもそも人間は自由なのか?って言うところから考えないといけませんが、結論から言うとおそらく人間は自由ではない。

 

 自由というのはなんでもやっていいと言う意味ではないし、自由というのは本来あり得ない。

 普段のぼくたちが考える自由は、画一化された自由なのです。そんなものは自由ではない。

 なにかから自由になるという表現をしますが、これは縛る、固定化されたものがあるという前提条件からはじまっています。


 人間っていうのは形があってないようなもの。人間っていうのは確定的なものではありません。

 ぼくたちはじふんってこういうもの、って思って確定していると思っているけど、全然そうではなくて、揺れに揺れているものです。そしてそのときに、そう保つ。


 その時々で、その位置を保つ。何かのときにそれぞれに確定して行っている存在だなって思います。


 とはいえ、基本的なベースの部分はあるんだろうけれど。
 人間を形があるんだろうと思ってみていたら、わからなくなります。

 人間が確定的なものだと思っているとまちがう。揺れ動いているとか、人間には形があってないようなもんだ、というところから出発しないと、理解することなんてできないんだろうな。


 まずは、固定化されたじぶんを解き放つことからはじめる。それが型に準ずることであり、型を行ずること。

 ここからはじまるのが愛光流なのです。


 本日もお読みいただき、ありがとうございます。


読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。