寛容さを強要するのはおかしくないですか?

寛容さを強要する社会ではダメだなって思っていて、だからといって寛容の反対語である厳格とか狭量であってもいけないと思う。

とはいえ、寛容さを誰かが誰かに強要するようでは、もはやそれは寛容ではなくて狭量だったりもするのではないか?と思う。

なにかあった、誰かに何かを言われた、何か事件が起こった、そういったときにまずどういう風に心や感情が動くのだろう?

それには個人差があるだろうし、その時々で置かれている状況も違う。

その反応自体が瞬間的で反射的なものなのか?それともいつまでも根深く残っているものなのか?それも違う。場面場面でも、個人個人でも。

他人からしたら大したことないと思われるようなことでも、案外自分にとって見たら大きな深い傷だったりもする。

そういった経験や記憶から生み出される反応や感情に対して寛容であれ、と強要するのはもはや寛容ではないと思う。


「あなたはもっと寛容だったほうがいいよ」「そうですね、わたしが寛容じゃないから許せなかったりするんですね。もっと寛容になるようにします」

こんなに不毛なものはないと思っている。


そもそも寛容さがほしいと思っている人。寛容さがほしいと思っている人は自分も寛容さが足りないと思っているし、他のひとや社会に対しても寛容であっていいんじゃないか?っていう風に寛容さを求めていたりもする。

寛容さがほしいと思っている人は誠実で一生懸命で自己犠牲の精神があって正義感の強いひとだ。ちょっと無理をしすぎる傾向もある。

それは理想を実現しようと、やり遂げようとする強い意志が強情さとなって現れる。頑固と思われることもあるし、それも自分ではわかっている。

自分に強いていることをついつい他人にも求めてしまい、相手をやりこめてしまうこともある。


そして、それなりに傷つく。


そんな人に対して「もっと寛容になったほうがいいよ」なんて最後通告に近い。


「もっと寛容になったほうがいい」という言葉は使い方がまちがっていることに気が付くだろう。




本日もお読みいただき、ありがとうございます。


読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。