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中心をとる練習をする

 ただただ中心をとる練習をする。日々繰り返さないと失われてしまう。日常の中では気がつかないのもいけないのだけれど、日常生活の中ではついその感覚が弱くなってしまう。
 
 目を閉じていても無意識的に中心をとることができるようになるためにはどうしたらいいのだろう?できるだけ簡単に時短で獲得することはできないのだろうか?そういった怠け心が出てくるのだけれど、どう考えても近道はないように思えます。

 ただただ中心をとる練習をする。日常生活の中でも意識的に繰り返す。そう心がけるしかありません。

 日常生活では「次にこれしよう」とかばかり考えていると中心をとることはできません。いつのまにやら中心から離れてしまい、中心でないものに振り回されてしまいます。

 一番問題なのはそのことに気がついていないこと。気がついたら「あぁ中心だった」と元に戻ることができます。しかし、気がつかないままに中心から離れていると、いつのまにやら中心から離れていることの方が通常になってしまいます。

 もうひとつ問題といいますか、重要なところだと思うのはほんとうに中心を必要としているのか?ということです。中心をとることが重要だと考えている自分がいる。中心をとることが必要だと考えている自分がいるということが出発点です。

 中心を必要としていない自分なのであれば、わざわざ中心のことを考える必要もありません。何かしら中心をとるということに対して価値を見出していることが出発点になります。

 ただ、ものごとは中心から起きるものですし、中心から派生したものが末梢に波及します。歴史的に考えてみても末梢から、地方から起こった革命的なものもはじめは中央の腐敗から起きています。

 中心をとることは末梢を理解することにもつながります。中心の問題であるにもかかわらず末梢が現していることがよくあることです。そのときに末梢をみていると本質を見誤ることになります。

 「そんなことどうでもいいよ」ってなるとそうですか・・・ってなるのですが。

 われわれ整体の人間は背骨を観ます。何かしらの現象を背骨の観点から理解しようとしますし、説明しようとします。背骨というと身体の中心にあります。目が前についていますから、背部、裏側ということになりますが、それでも背骨は身体の中心にあります。背骨を背骨と捉えるだけではなく、背骨は中心であり、ものごとの中心であり、その人の病の中心であり、その人の問題の中心であり、その人の悩みの中心なのです。

 社会の問題も、経済の問題も、人間関係の問題も中心から起こります。その中心とは何なのだろう?中心をとることを無意識的にできるようになるとさまざまな問題の本質が見えてくる。

 ただただ中心をとる練習をする。日々繰り返し、そこから派生するものを知ろうとする。整体の稽古というものは経験してみないとわからないことが多いと知る。


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