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作為も無作為も同じところにある

 作為の世界と無作為の世界があって、どちらかというと作為的にものごとをなんとかしようと考える。何かしらの成功論とか成功哲学、売り上げを上げる方法論などなど。そういったものを駆使し、自分なりの成功やしあわせを求める。作為的に何かを行い、その結果が目に見えてわかりやすいものが好ましい。行動計画や売り上げ目標も同様でそこに根拠や見込みが数字になって現れていると信ぴょう性が高いらしい。このnoteの定期マガジンを発行するまでのプロセスも同じようにそういったところが明確でないと落とされる。作為的な世界を共有できないと相手にされないのだ。

 片や無作為の世界があって、こちらは思わぬ結果が生まれる。無作為的に現れる現象に再現性はない。後々になって検証してみると「そうだよな」って納得することもあるんだろうけど、当初の場面では思いつかない。思いついていないのだけど、何かしら別の作為のもとに行っていると無作為のものが現れ出てくる。無作為をはじめから計画に取り込むことはできないし、そうすると見込みが甘いと言われる。根拠がないと言われる。でも無作為を起こすためには作為的に行動していないと現れない。そもそも行動の中に失敗することを盛り込むことはないのだから、そういった意味で言うと失敗とかは無作為的なものなのかもしれない。

 最近また老子を読んでいるのだけど、作為的であるということと無作為ということ。これと無為というものはまるで違うものなんだなと思う。一見すると無作為と無為は字も似ているし、意味も同じようなものに思われてしまうかもしれない。でも観ているものがまるで違って、発生もまるで違って、別の世界に存在している。

 こんなふうに考えると作為的であるにせよ、無作為であるにせよ、同じ結果次元の世界の話なのだから消えてなくなって行くもの。ものごとは無から有に流れていくけど0から1というものとはまた違うんだな。0から1も作為から発生するものである以上何も変わらない。


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