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ひとりでは何もできない
坂ノ上部落には約20~30件の家があって、その中で役員が役目がある。
区長っていう一番えらい人、日本でいったら総理大臣にあたる役を選ぶときには選挙をするんだけれども、それ以外の役は基本的に順番でまわってくる。
ぼくは、今年は会計の役をやった。
坂ノ上部落では何年かに一度役員をしないといけない年がまわってくる。ぼくは今年はその年で、会計をやりなさいということだった。
会計というのはお金の管理をしないといけないので、責任が重大だ。お金を使って部落の行事を実際に運営するのは、それぞれの部の長がやるんだけれども、部落のお金を持っているのが、とにかくプレッシャーだ。
じぶんのお金でない、他人のお金を預かっていると思っていることが、すでに気が重い。
それを一年間やってきた。
会計報告を作って、監査も終わり、会計報告も終わって、ようやく役員が終わった。
肩の荷がおりるっていうことは、こういうことなんだなぁ。
ぼくの肩には、何にも荷物は載っていなかったはずだけど、おわってみたら、何だか軽い気がする。
肩の荷っていったい何だろうか?
肩が重たいっていう人もいるかもしれないけれども、ぼくの今回の場合はくびかな?って思っている。
くびが凝っているような感じがする。
解剖学で考えてみても、僧帽筋っていう筋肉はくびから肩から背中からつながっている大きな筋肉だ。
この僧帽筋が疲れたら、くびとか肩とか背中が凝るのだろう。
整体で考えてみると、くびっていうのは神経が疲れたときに硬くなる。くびは神経の中の親玉だ。
肩の荷っていうものの正体は僧帽筋よりも神経っぽい感じがする。
そんなに大きな筋肉が疲労するほど、長い間、電卓をたたいていたわけでもないし、実際に電卓をたたき過ぎて、僧帽筋が疲れて、肩の荷を感じていたのだとすれば、会計報告が終わっただけでは、肩の荷はおりないだろう。
そういったぼくの身体反応を考えると神経をかなり使っていたんだなと思う。
こういった緊張って伝播する。緊張した人の近くにいると近くにいる人まで関係ないのに緊張してしまう。もうなくなったけど、ぼくが子どもころは小学校で予防注射があって、校医の先生が学校に来て、みんな順番に並んで予防注射を受ける。こういったことってほんとうに時代だなぁって思うけど、いまならまずありえないことだ。
このときに列のうしろで注射を待っているみんなのくびはまちがいなく硬直していただろう。
注射を終えて教室に帰るやつはそうでもないのに、まだ注射を打っていない隣りの列のやつはぼくと同じように緊張している。
こわさや恐怖を悟られないように、なんてことない平気な顔をして列に並んでいるのだけれど、おそらくくびはビックリするくらい硬直している。
その顔、見ていると余計に緊張するよ。あぁそっちもそうか。
伝播するのって緊張だけでなくって機嫌がいいとかっていうのも他人に移るといわれている。
機嫌がいい人の近くにいると、こちらまでいい気分になるそうだ。たしかにいつも通っていた駄菓子屋のおばちゃんはいつもニコニコしていた。べつにおばちゃんに会いに行っていたわけではないけれど、おばちゃんの店によく行っていたな。
無理をして、じぶんの感情を押し殺してまで、ニコニコしている人もいるけれど、そういうのって、見た目以上にバレている。それならはじめから、ニコニコなんてしなきゃいいのにとも思うけれど、そうもいかない。だからといって感情のまま、プンプンされても困るわけだ。
それよりかは、うわべだけでもニコニコしていてもらったほうが、何となく気分はいい。もちろん、こころの底からの心地よさを得ることはできないかもしれないけれど、プンプンされているよりはよっぽどましだ。
比べてみたら、ニコニコよりもプンプンのほうが伝播する速度は速いのだろうか?調べたこともないけれど、もしそうだとしたら、プンプンしている人は相当な感染力でプンプンをまき散らしていることになる。
誰だって、好き好んでプンプンしているわけではない。ぼくはそう思っている。たまに、この人は怒ることや誰かに文句をたれることが趣味なんじゃないか?って思う人もいるけれど、その人だっておそらくはニコニコしていたい。
こわくて聞いたことはないけれど、多分、ニコニコしていたい。
ぼくらは、たったひとりで存在するのだけれど、たったひとりでは何もできない。じぶんの機嫌を維持することもできないし、部落を運営することもできない。そう考えると、ぼくらはたったひとりでは病気になることすらできないし、治ることもできない。
ぼくらはお互いにつよく依存しながら生きている。
助けることもあるだろうし、助けられることもあるだろう。
これが、何のためになるのかわからなくても、誰かのためになっていることってあると思う。
本日もお読みいただき、ありがとうございます。
ただそこにいるだけで誰かのためになっている人っている。ぼくの場合だと妻や子どもたち、家族。
多分、あなたのことをそう思ってくれている人もいるはず。
ぼくらは依存し合いながら生きている。ひとりでは病気にもなれないし、健康にもなれない。
読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。