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他人の信念をまず受け入れないといけないということ

人はとにかく自分の話をしたい。
自分の話を聞いてもらいたいと思っている。


われわれのような整体をやる人間に対してもそうだ。

整体に来る、くらいなのだから身体に何かしらの変調があるのだ。

体調の異常が特別になくても足しげく通ってくださるありがたい会員さまももちろんおられるのだけれども、大部分はそうではない。

何かしらの変調があるから整体にくるのだ。

○○が痛い、○○がしびれる、というような相談から家族の○○が~~なんだけれどもどうしたらいいだろうか?といったところまで相談に来る。

それはいいのだけれども、とにかく人は自分の話がしたい


体調に異変を起こして、整体に来ているのだから専門家の意見をきちんと聞いたらどうか、と思うのだけれども聞かない。

いや、聞くのだけれども聞くには聞くなりの手順が必要だ。


最近、インターネット上における医療系の検索のアルゴリズムに変換があったそうだ。
より信頼性の高い情報を検索上位にもってくるらしい。
より信頼性の高い、例えば病院やクリニックなどの医療機関が発信している情報を上位にもってきて、いかがわしい情報は下位にもってこられる。

そのことは置いておいたとしても、とにかく今は情報が過剰な時代だ。
どれが本当の情報なのか判断できないので、本当の情報にたどり着きやすいように細工したのだろう。
そうしてたどり着いた情報を基にいろいろな知識を得ていく。
そしてそれはその人の信念になる。


「先生、このあいだ姿勢がわるいと言われまして。それで肩がこるのだと思うんですけど、どうですか?」
この場合の正解はおそらく「よくおわかりですね!○○さんは姿勢がよくないから肩がこるんですよ!」だろう。


その人に姿勢がわるい、といったのがどこの誰だか知れない人物だったとしても、だ。
たとえ近所の○○さんの奥さんだったとしても、テレビで芸能人の○○が言っていた、だとしても。


「あなたの肩こりは姿勢がわるいからではありません」という回答は期待されていないし、たとえ専門家がそのように判断したとしてもその信念は揺るがない。

その人は「姿勢がわるいから肩がこる」のだ。


これはほんとうに奇怪で不思議な現象だ。
その人には自分の体調不良の原因がわかっている。
だったら自分で治せばいいのに、と思う。


この場合、この人は自分の信念の正しさを確認しに来ているのだ。

べつに肩こりや姿勢をよくしようとは露ほどにも思っていない。

わたしはこのことに気づくまではたいへん多くの失敗をくりかえしてきたのだと思う。
見込み客やリピートにつながるお客さまを失ってきていたのだから。


それにしても他人の信念というものは不思議でならない。

その不思議さがおもしろい、という部分なのだが、発する言葉の裏の意味を読めなければとにかく奇怪でしかない。

「肩こりだ」といいながら姿勢がわるいことを自慢する人、
「腰がいたい」といいながら父親が亡くなった寂寥感を訴えたい人、
とにかく奇怪でしかない。


人はとにかく自分の話をしたい。
自分の話を聞いてもらいたいと思っている。


しかし、聞いてほしいことはなかなか表にでてこないものでもあるようだ。

読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。