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自灯明 法灯明

自灯明 法灯明という言葉をご存じでしょうか。私は正直知らなかったです。これまでに聞いたことがあった?どこかで読んだことがあった?のかもしれませんが、まったく頭の隅にも残っていませんでした。

本屋で立ち読みしながら、パラパラとめくった「禅語録」の中から、
自灯明 法灯明 
という語句が目に入った。
お釈迦様が亡くなるとき、弟子のアーナンダが、
「私たちは、これから何を依りどころに生きていったらよろしいのでしょう」と尋ねたら、お釈迦様がそう答えられたという。
~中略~
自らを灯明とし、自らを依りどころとせよ。法を灯明とし、法を依りどころとせよ。

端的に表現されていてとても分かりやすい。師匠からも同じことを言われているように感じました。自らを灯明とするのだけれど、その灯明が自分勝手、わがまま勝手であってよいはずがない。

何せ自分自身が一番信頼できないと思う部分もあるのですから。明日の予定、といっても大した予定でなければないほど達成したことがない。ないことはないのですが、達成できなかったことの方が覚えている。「今日はこの本を読もう」と思ってもなかなか読み進まない。本当だったら「今日一日」で「この本とこの本」を詠み終えているはずが、一冊の半分にも満たないことがある。

読書をするにしても予定を遂行するにしても、気力と体力が必要なのだ。単に空机の上で算段してもいつまで経っても解決しないのです。

自らが依りどころになるには、私自身を磨いていく必要があるだろう。ひとつひとつ丁寧に体験していくことが大切なのだと思う。

大切に、と書きましたが「何を」「どのように」したら「大切」だと言えるのだろうかと考えます。「大切にしよう、そうしよう」では変わらないのです。私自身がそういう人間であることは重々承知している。

「受け入れる」という感覚は大切だ。しかし「受け流す」のはやめようと思う。これまでは何となく目の前にある速度あるものに意識を奪われ続け、「受け流して」きたように思う。そうではなくて、そこにある「体感」を支えにすることだ。

まぐれ的「体感」ではなく、あらゆる感性や人間関係においても、日常的な何でもない挙動においても間違いのない「体感」を追い求めていく。

この姿勢こそが「大切」という試みなのではないかと思うのだ。

自灯明 法灯明
新しい言葉に出会えて、とてもうれしい気分です。



読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。