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もうひとつが彩りをつくる

 この世の中には、「目に見えるもの」と「目に見えないもの」があって、多分それだけではなくて、もうひとつ、「見える人には見えるもの」というものがあると思う。

 そして、この「見える人には見えるもの」というのが、ぼくたちがよくわからない不思議な世界をつくっている。そして「見える人には見えるもの」が、彩りを生んだり奥行きを生んだりして、ぼくたちを楽しませてくれる。


 たとえば、子どものころに友だちと自転車で競争したり追いかけっこをしたりしたことがあって、そのときは夢中で自転車をこいだ。友だちのひとり、加藤くんは自転車をこぐのがとにかく早くて、加藤くんに追いかけられたら角を曲がるまでに捕まってしまう。

 加藤くんのこぐ自転車はぼくらの中では最強だったのだけれど、いまはスピード計とかも簡単に付けられるから、スピード計で測ったら加藤くんが、時速何キロで自転車をこいでいたのかがわかってしまう。


 数値化されることで、ぼくらの最強の加藤くんが「目に見えるもの」になってしまった。ぼくらの加藤くんはどこかの町の○○くんに負けるかもしれないし、やっぱり勝つかもしれない。


 たとえば、めちゃくちゃ美味しいお蕎麦屋さんがあるとする。

 ぼくはほんとうにそういうお店を知らないので、近くにあったらぜひ教えてほしいと思っています。

 そこで蕎麦を打っている名人の大将と若いお弟子さんの違いってなんだろう?

 おそらくそこには「目に見えない」なにかが違っていて、それこそ力加減とかわずかな水の差し加減だったりとか、「見える人には見えるもの」が違っている。だから、蕎麦打ち名人の大将から見ると、若い弟子はまだまだなんだと思う。


 そういった細かい、ぼくら素人には「目に見えないもの」が数値化されることで「目に見えるもの」になっていく。蕎麦打ち名人の持つ熟練のテクニックが数値化されたら、完全にコピーするところまでは行かなくても、かなりの進歩で近づくことができるのではないか?


 でも、ぼくは何でも「目に見える」ようになることを望んでいるわけではない。たしかに「見える人には見えるもの」って存在する。「それ、ウソでしょ?」って思うようなことを言っている人もいるけど、それはその人なりの真実なのだろう。


 「見える人には見えるもの」ってたくさんあって、それを必死になって「目に見えるもの」にして一般化し、共有しようとするけれど、それも結局「見える人には見えるもの」をつくっているに過ぎないんだと思う。

 まわりが「目に見えるもの」ばかりになっても、みんながみんな蕎麦打ち名人の技がほしいわけではないし、加藤くんの自転車の速度に挑戦したいわけではない。

 わかった気になって知った気になって安心するけど、つまらなくなる。

 「なぁんだ」の連続って、つまらない。


 「見える人には見えるもの」は無数に存在する。感情も本来は「目には見えないもの」だ。誰が好きだとか、誰を信頼しているとか。好きとか信頼とかは目に見えない。でも、ぼくたちには見えている。数値化されると弱冠困る気もするが、ぼくたちに感情は見えている。

 これも一種の「見える人には見えるもの」だろうか。


 ぼくは、やっぱり「見える人には見えるもの」が、ぼくたちを彩っているように思う。


 本日もお読みいただき、ありがとうございます。

 「目に見えているもの」ってほんとうにわずかなんですね。そう考えると、まだ可能性いっぱいだなぁって思います。





読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。