横尾忠則は86歳になる。コロナで家に閉じこもって絵を描いたそうだ。それがやって来る。

横尾さんと言えば状況劇場のポスターとか反近代の時代の人たちと一緒に遊んでいるみたいにたくさんのことをしていたのが最初だった。反近代というのはメディアに出たりしてる三島由紀夫とか寺山修司と状況劇場のテント芝居とかドサ回りの大衆芸能とか歌謡曲ややくざ映画といったもので普通に世間に溶け込んでいるかんじがあった。どういうわけかそれは同時にそれは自然にそれは何だろうファッションやハリウッド映画やフランス映画やビートルズでもあって普通に美味しい綺麗で刺激的で俗悪で生き生きとして楽しいものだった。反近代といっても若者にとってのそれはむしろモダンな近代的なカッコよさでスーツや革靴でネクタイを締めて颯爽と立ちあがるといったスタイルでアイビースタイルでもあった。同時にその裏側は極彩色の状況劇場のポスターであった。若い頃の横尾さんは初めはそんな格好してたような気がする。どうだったかな。
 テクノロジーはひろがってそれが情報空間みたいなものを生みだすと戦後の世代には近代こんにちはである。近代主義の意識とかはどうでもよくて建築や都市環境がひろがる空間ではまだ空虚な空間でしかないのでそこは自由な空間であった。田舎の共同体は若者を都市にどんどん送り出して衰退していく。まだ田舎は老齢化してはいなくて田中角栄にパワーを与えることができた。

 86歳の横尾忠則というと86歳の反近代というのではなくてどんどん姿を変えていくスタイルであった。近代に対するスタンスをやめると反近代は江戸時代だったりなんでもよかったりする。曾我蕭白の真似から自分の寒山拾得を描いてみる。テクノロジーと融合することが生活をなにかと融合することの広がりであってそこに寒山拾得がいて身体が手が自由に正確に描けなくなった横尾忠則がいて寒山拾得を描くのであった。
 
 近代は啓蒙主義の理想を目的とするものだったと戦後のこどもは教わったような気がしたがいったんそういう目的から離れてみると反近代であった。

 現在になってしまった変貌した「近代化」はどういうものかというと、ムカシのそれは人間たちの住む場所や働く空間を用意するみたいなことだったことから変貌してひとりひとりの個人にとっての空間を 演出するようになった。まず人間たちを適度な広がりを持つチューブ状の空間に囲んで、何というのか人間的なスケールの空間を、外側をかっちりと作って囲みながら延長させてどこまで広がっているのかどうでもいいように感じられる大きな快適な迷路のようにつねにそとから指示をもらって人はそれに沿って動けばいい、あるいは適度な大きさの部屋のなかの空間で自由に自分の位置が選べて仕事と言われる活動をあるいは生活と言われる活動を、効果的に効率的に、健康で快適に、あまり負荷が生じないようにいろんなことを行えるように外部から皮膚感覚みたいに自然に指示されながら同時に監視されながら、自分のペースで活動できる、というのがテクノロジーのもとでの成熟してしまう「近代化」の実現方法でもあるのだろう。
 そのとき人はどういう感じなんだろうか。規律や思想を内面化する必要がしだいになくなっていくこの環境で空っぽになっていく内面には何がいるのだろうか。それは単純に考えれば美しさ綺麗さうきうきした気持ちとか人となかよくするコドモみたいなのがいる。それは何かに偏ったものでは困る。意味が明確で輪郭がはっきりしていて一貫性のあるというものとは違って曖昧で意味不明であるのだけれど困惑するようなものとは違ってるような。セレブでもビンボーでも面白いなって感じられて否定的でも肯定的でもないようでなんだろうね。そうだ、寒山拾得みたいなやつ。

 近代化される人間とは啓蒙の理想をある程度実現すべく自由でかつ倫理的で正確な理解力柔らかなコミュニケーション能力を備えたつねにスキルをアップデートできるように絶えず外側からの刺激に応答することが可能な人間であらねばならないといった過剰な要求と負荷に耐えられるといったやたらとコストのかかる存在になってしまうので最新万能戦闘機みたいに馬鹿げたものになるから袋小路にはいってしまう。
 そうして最高のパイロットは何時しかドローンに置き換えられていく。最高のパイロットはどうなるの?彼らも歳をとって横尾さんみたいに身体を自由に動かすことも無理になって別な新しいタイプの朦朧とした移動体を作って楽しめばいい。

 近代化された人間というのはみんな似たような運命をたどることは避けられないのかもしれない。横尾忠則さんの印象は最初からたぶん最後までやわらかで楽しいものたちに囲まれたものだった。ふつうのただの人間たちの運命もそういうものであってほしい。

 ちょっとは健康で少々病気があって体を思い切っては動かせないようなそれでも生活や散歩する程度には支障のないくらいの年寄りの人間というのがこれからのロールモデルの基準にあるようになっていくのかもしれない。なんだか芥川龍之介の『河童』のおしまいあたりに出てくる河童の国からの出口を教えてくれる、老人で生まれて若者になりこどもになり赤ん坊になって消えていく特別な河童のような存在を思ってしまう。

 時間はさまざまに流れていてそれは空間と相補的なのだった。空間はとぎれとぎれで生と死で区切られている。ここでは空間がヒトの比喩だ。だからどんなにレジリエントであっても空間は廃墟であって博物館であって連続的とは言えない。圧縮してしまえば記憶が連続しているだけなのだ。さようならはこんにちはですこんにちははさようなら。人生はこんな感じのことの連続だともいえるから廃墟を誰でも持っていてそれは記憶でそれは現在なのでもある。集団的想像力と集団的記憶がある。それは交流したり別れたり生まれて来たり死んで廃墟になったりしていく。われわれは、自分がその過去にかかわりをもたなければ、その観客となることもないだろう。過去のすべての企てに決着をつけドラマの最終シーンになるみたいのは今時そんな都合がいいのなんて駄目だよね。だから起こることはだいたいはそれほど重大なことに思えないのかもしれない。奇妙なことにわれわれのかけがえのないライフやまっさらブルージーンズの自由が、過去の他者の自由のうちにあらかじめ示されてあってすでに巻き込まれていてすでに演じられていてそういうのが集団的記憶をひもとくと認められてくりかえしているだけみたいなきみょうな感じ。それはどうってこともないんだけれど潜在的にはそれは対立と争いを内蔵していていきなり活性化したりするんだろうか。可能性はあるんだろうな。この二重になっている領域に、客観性と道徳的情熱の暴力的な二項対立をどうにかするのを強いられるときも来るんだろうね。なんかわざと曖昧に朦朧としたことかいてるな。なにがこわいかいってみたい気もするけどいいたくない。

 86歳の横尾さんはコロナで外に出れなくて絵を描いて過ごした。その時間は夢のようであってそれが絵になってわれわれのところにやってくる。寒山拾得を描くといってもただのフィクションだしおそらく自分を描くのかもしれない。客観的に自分を描くわけではないが今時の時代では客観的な自分というのは一つの焦点を持ってるようなものではないだろう。そうならそれは妄想だっていい。客観的なものはむしろ拡散していてそれを描くとなるとあれもこれも次から次へとどんどん出て来て次から次へとどんどん描いていかなければならないということなのかもしれない。こういうのが21世紀なのかもしれない。一つの焦点に一つの中心に自分が明確になってしまうともう身動きが取れないように感じられていやだ。ましてやコロナの最中にそんなことに遭遇してしまたら目も当てられない。元気を出そうよ。元気な横尾さんが描いたたくさんの元気な横尾さんの絵を見て元気な横尾さんみたいになりましょう。寒山拾得とはね。

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