朝永振一郎の見たオッペンハイマー

『自然』1954年8月号「オッペンハイマー」『鏡のなかの世界』収録、みすず書房)

 僕はオッペンハイマーに二十世紀の人間のー特に自然科学的人間のー一つの典型を見たような気がする。彼は現代のファウストのように思われる。自然科学は何といってもメフィスト的な要素があって、彼はそれとけい約して、天上的なものと地上的なものとの間にさまよっているような印象を受ける。これは今世紀の人間全体の運命ではないだろうか。
 彼の書いた「私は水爆完成をおくらせたか」(『中央公論』、6月号掲載)を読んだが、感じられることは、そのときどきで立場は変わるけれど、その時における態度が異常にはっきりしていることである。はじめに超然と研究一本やりで、ラジオも聞かず新聞も読まない。それがスペインの内乱やドイツのナチスの暴虐に怒りを感じて突然政治に関心をもちはじめ、いろいろな運動に参加し共産主義者とも交わる。原爆を作ることに決まると全力をあげて専心する。水爆の計画が出ると徹底的に反対するが、大統領が決定声明をすると、反対の立場はとにかくとして客観的に計画を考えてみる。この態度がその時ではっきり違うという行き方が、日本人とは大変違うところがあって、彼の場合、単なる時流の低級な便乗者とはちがって、良心的であればあるだけ、そして自己の職責を強く意識すればするだけ、そういう行動をとらざるを得ないのである。行動はすっぱりと割切れていて、単に時流に流されているのではない。絶対にハムレットみたいではないし、むしろ自ら進んで歴史の動きに働きかけようというのである。
 この行き方の善悪は僕には判断できないが、また僕個人としてこんなに割切った強い行きかたは出来そうもないが、ここに良心的で純粋な科学者の一つの運命をみせられ、ひどく暗く淋しい気持ちにさせられた。このように傑出した科学者とても、そしてただ単に時流に流されているのではのにかかわらず、その時流に超然などということは出来ないのはもちろんだが、自分で歴史に働きかけたと思った瞬間、今度は歴史によってどうにもならない目に合わされる。何かよくわからない巨大なものの手でいやおうなしに動かされて行く。オッペンハイマー自身は、自分の変貌を自分自身の進歩であると感じているようだが、東洋人の僕は何となく運命というようなことばを使いたくなる。心の弱いことである。
 この事件はアメリカ自体のみならず、二十世紀の世界全体の矛盾、これから起こるであろう人類の悲劇の一つの面を象徴的に示しているように、僕には思われる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?