映画『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』は、ジョン・カサヴェテスの虚構の世界に生きる男の執念のようなものがある。

これまた奇妙な映画だ。以前に『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督が、傑作20本を選んだ中にこの作品が入っていたので、見たいと思って興味を持っていた。まだ見ていないジョン・カサヴェテス作品だった。濱口竜介監督は自らジョン・カサヴェテスの影響を強く受けたと公言していた。この作品の良さについて解説を聞きたいところだ。

タイトルから連想するようにハードボイルド系のアクション映画なのかと思っていた。『グロリア』のような。確かに殺しの場面はあるし、殺されそうになる夜の空きビルでの銃の発砲シーンもある。しかし、銃撃戦とはならない。主役のコズモが闇に隠れているばかりで、マフィアの追っ手の男が闇に向って無意味に発砲するばかりである。その決着も描かない。

そう、この映画はモノローグのようにコズモという男の人生のこだわりを描いた映画である。オープニングから車から降りてカフェで金を渡すコズモ(ベン・ギャザラ)の姿をカメラは写し続ける。金を受け取った相手の男はほとんど写さない。望遠レンズを多用した深度の浅い手持ちカメラ映像で人物を追い続ける。

このコズモという男は、場末のナイトクラブ「クレイジー・ホース・ウエスト」を経営するオーナーである。パリの有名なナイトクラブ「クレイジー・ホース」を真似たチンケなクラブだ。コズモ自身が選曲・構成・演出しているショーであり、伊達男と呼ばれる道化者のオヤジとセクシーな衣装の女の子たちのステージショーが延々と描写される。物語は単純だ。店の借金をやっと返したコズモだったが、マフィアの賭博場に店の女の子たちを引き連れて、高級リムジンで派手に乗り込んだのだが、一夜にして多大な借金を背負い込み、中国人のマフィアのボスの殺しを借金の代わりに引き受けることになる。顔も知らない中国人の家に乗り込み、銃で殺害し、彼自身も殺されそうになるのだが、なんとか逃げだし、再び店に戻ってくる。そんな話だ。

奇妙なのは、そのマフィアとコズモの借金をめぐる諍い、中国人殺しのサスペンスや殺されそうになるアクションは、簡単に描かれるだけで、映画の中心ではないのだ。笑ってしまうのは、殺しに向う道の途中、公衆電話からタクシーを待っている間に店に連絡し、ステージのことを心配するシーンがある。どれだけショーのことが心配なのか、と思う。マフィアに追われて殺されそうになって、闇に潜んでいたのに、いつの間にか店の黒人ダンサーの家にやって来て、平然としている。銃撃戦のサスペンスなどどうでもいいかのように、何がどうなったのか、決着は何も描かれない。黒人の踊り子が店に来なくて、やる気を失っている伊達男やダンサーたちを楽屋で励まし、ショーが始まってそれを見届けて、銃で撃たれたお腹の傷の出血を確かめるコズモの店の外のシーンで終わる。

人生は気楽にやることさ」と楽屋でコズモは語る。嘘や空想、ショーにこそ人生がある。闇と光、店内の赤や青の照明に照らされながら、コズモはナイトクラブの喧噪の中にこそ、自分の居場所を感じている。

カジノでカードで借金をしたときに、コズモは「銀行預金の口座などない。みんな商売ににつぎ込む」というような台詞がある。それは、映画製作にお金をすべてつぎ込むジョン・カサヴェテス自身の姿でもある。女の子たちを気遣い、伊達男をノセて、ステージショーを大切なものとして生きるコズモの姿は、カサヴェテスのスタッフや俳優たちとの映画作りと重なるものがある。この場末のステージショーは、ダラダラとしてくだらない種類のものである。伊達男のギャグや下手な歌。女の子たちがおっぱいを出すと、客たちがヤジを飛ばして喜ぶ。それでもコズモという男は、このステージのショーにこだわり続ける。そんな虚構の世界、空想の世界での生きざまが描かれた映画だと思えば、この奇妙なハードボイルド映画もまた楽しめるというものだ。

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