「小川洋子と読む内田百閒アンソロジー」内田百閒(ちくま文庫)レビュー

小川洋子が選んだ内田百閒の幻想小説集。随筆も短編も織り交ぜて並べている。小川洋子がそれぞれ最後に短く一言コメントを書いているのもなかなかいいい。予想外の世界に連れていかれて戸惑っている我ら読者に、その戸惑いにそっと寄り添ってくれる感じとでも言おうか。

暗い土手にカンテラの光に導かれて行く一膳めし屋で聞こえてくる隣の客の会話(「冥途」)、熊が牛の横腹を喰っている幟を見て帰ろうと思っていたのに女に「まあ面白そうね、入りましょう」と手を強く握られ見世物小屋に引っ張られ、抱き上げられて舞台の熊のところへ連れていかれる恐怖(「蜥蜴」)、盲人の琴の先生を主人公に音と気配で暮らす老人の生活を描いた「柳撿校の小閑」。手を引かれて導かれながら生活する感じもなかなか味わい深い。「山井の家内で御座います」といきなり玄関にやってくる未亡人からもらう紙包み。そのなかの籠から突然現れる白兎の驚き(「雲の脚」)、「サラサーテの盤」もまた友人の妻、死んだ中砂の細君が玄関口に現れる。友人の妻は死者の遣いか。意に反して光や音に導かれ、夜の土手や町で惑わされ、突然妙なものが現れる。鳥やら兎やら熊やら、件やら奇妙な生き物たちが。そして死んだ友の妻が玄関に立っているのだ。

そして、百閒小説では「音の気配」は重要なのだ。しんしんと静まり返って何の音もしなくなったと思ったら・・・。
「座っている頭の上の屋根の棟の天辺で小さな固い音がした。瓦の上を小石が転がっている思った。ころころと云う音が次第に遠くなって廂に近づいた瞬間、はっとして身ぶるいした。廂をすべって庭の土に落ちたら、落ちた音を聞くか聞かないかに総毛の毛が一本立ちになる様な気がした」というように、静かに奇妙な音が突然に忍び寄ってくるのだ。「サラサーテの盤」の聴き取れない奇妙な声に導かれて、あの世から友の奥さんが誘いに来る。

「とおぼえ」という氷屋の短編も好きだ。百閒幻想小説では、「風」もまた重要な舞台装置だ。
「秋風が立っているのだが、蒸し暑い晩もあって、今日は特に暗くなってから気持ちの悪い風が吹き出した。どっちから吹いてくるのかよくわからない。迷い風というのだろう。しめっぽくて生温かいから、肌がじとじとする。冷たい氷水が飲みたいと思った。」と、迷い風に導かれて氷屋に入ると「すいを下さい」と男は言う。「すい」とは「甘露を入れて、その上に氷を掻いてのっけた一番安い氷」だそうだ。ラムネの玉が抜ける音で主人が驚き、焼酎を飲んでいたら、「お客さん、何か云われましたか」と何も言わないのに何度も聞かれ、幽霊や墓地で光る「人魂」を見た話をされる。そして遠くで犬の鳴き声がすると主人は「どこで鳴いておりますかね。それが一度鳴きやんで、今度又鳴き出したときは、とんでもない別の方角に移っているんです。あんなに遠くの所から、やっぱり遠くの別の所へ。そう早く走っていけるわけがないと思うんですけれど」「ほかの犬だろう」「いいえ、それは解っているんです。おんなじ犬ですとも。わっしは吠え出す前から知ってるのですから」と不思議なことを主人は言う。静かな夜に氷屋で喉が渇いて焼酎を飲みながら、犬の遠吠えを聴き、主人と幽霊の話をする。

そのほか、下宿屋で起きる様々な人生模様を描いた「他生の縁」、長野初さんというドイツ語を習いに来ていた女子学生が大震災で亡くなる師弟愛を描いた愛情深い物語「長春香」など、百閒文学の幅は広い。

「消えた旋律」も、音にまつわる物語だ。焼夷弾で焼けたビルの中の音楽教室から聴こえてくるカスタネットのような音。繰り返される旋律は、雨がざあざあ降っている夜でも、耳慣れた旋律が聴こえてくる。曲が思い出せないので紙片に「タータカ、タータ、タータカタ」と書いても、一晩寝るとその旋律は忘れてしまう。夜になるとまた旋律は聴こえてくるのに、昼は忘れてしまうその繰り返し。

内田百閒の小説は何度読んでも発見がある。そしていつの間にか忘れてしまう。そしてときどきまた読みたくなる。いつもどこかに連れていかれ、あやふやな境目を彷徨う文章は、奇妙であるけれど人間味に溢れていて、怪しげで不思議で味わいがある。とりとめのないことしか書けないが、またいつかこのアンソロジーも読むことになるだろう。

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