「猫を棄てる 父親について語るとき」村上春樹(文春文庫)偶然の積み重なりとしての人生

村上春樹の新刊が話題になっているが、まだ読んでいなかった『猫を棄てる 父親について語るとき』が文庫になっていたので読んだ。村上春樹が実の父親のことで記憶していること、父親の戦争体験なども調べて、考えたことをエッセイにしてまとめたものだ。

「ある夏の午後、僕は父と一緒に自転車に乗り、猫を海岸に棄てに行った。家の玄関で先回りした猫に迎えられたときは、二人で呆然とした……。」

この父親と自転車に乗って猫を棄てに行ったエピソードを思い出して書き始めてから、スラスラと父親についてのエッセイが書けたという。これを読んで、さてさて、自分は父親のことをどれだけ知っていたのだろうかと考えてしまった。

私の5年前に死んだ父。大雑把な履歴は知っていても、彼が心の中で何を考え、何を思いながら、田舎から東京に出てきて、仕事をするようになって、家族を持ち、郊外に家を建て、仕事をやめ、老いて、何を思い死んでいったのか?子供たちにどんな思いを抱き、自分の人生をどんな風に考えていたのか。心の内を語る友はいたのか?誰かに大切な何かを話したことはあったのか?正直なところ、何も分からない。大切な何かってなんだ?そんなものがあったのか?それすらも分からない。想像するしかない。

もっと突っ込んで、生きているうちにいろいろ聞いてみても良かったのかもしれない。でも、生きているうちは、なかなか面と向かって聞けないものだ。みんな多かれ少なかれ、そんな風にして身近な人と接し、ともに暮らし、そして死に別れていく。死んでからではもう遅い。「人生はいつもちょっとだけ間に合わない」とは、是枝映画の『歩いても歩いても』のキャッチコピーだが、そんなもんだ。「間に合わない」し、「間に合っている」ときは何もしない。人の心の奥に踏み込める瞬間なんて、そうそうあるものではない。それは肉親や夫婦であってもそうだ。いつか、自分がその時々で、どんなことを思い、生きて来たのか、書いてみようか・・・などと考えたりもしたが、それは実現するかどうかは分からない。たぶん、正直になど書けるものではないし、なにが本当にその時、思っていたかなんて、自分にもわからないし、覚えていないのかもしれない。記憶はいつだって、後からつくられるものだし、それを書き記すことがどんな意味があるのか。そんなことをもやもやと考えた。

村上春樹が書いているように、人生は偶然の積み重なりだ。確実なものなど何もない。その偶然の積み重なりの上に、今の自分はあるし、今の現実はある。そんなはかなく脆いものの上に、私たちは生きている。

もし父が兵役解除されずフィリピン、あるいはビルマの戦線に送られていたら・・・もし音楽教師をしていた母の婚約者がどこかで戦死を遂げていなかったら・・・と考えていくととても不思議な気持ちになってくる。もしそうなっていれば、僕という人間はこの地上に存在しなかったわけなのだから。そしてその結果、当然ながら僕という意識は存在せず、従って僕の書いた本だってこの世界には存在しないことになる。そう考えると、僕が小説家としてここに生きているという営み自体が、実体を欠いたただの儚い幻想のように思えてくる。僕という個体の持つ意味あいが、どんどん不明なものになってくる。手のひらが透けて見えたとしてもとくに不思議はあるまい。(P108)

 いずれにせよ、僕がこの個人的な文章においていちばん語りたかったのは、ただにひとつのことでしかない。(略)。
 それは、この僕はひとりの平凡な人間の、ひとりの平凡な息子に過ぎないという事実だ。それはごく当たり前に事実だ。しかし、腰を据えてその事実を掘り下げていけばいくほど、実はそれがひとつのたまたまの事実でしかなかったことがだんだん明確になってくる。我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか。
 言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさり吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。(P114)

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