学問

僕は長い間、体系的に勉強をするということをしなかった。中学や高校の頃も教科書を読むことはあっても、文法書を自発的に読むことはまずなかったと記憶している。思い返せば、授業もあまり聞いていなかった。退屈だったからだ。なので、僕は先生からすれば、基本的に嫌な生徒だったはずだ。

小学校にも、中学校にも、カリキュラムというものはあったはずであるが、そのようなものを意識することもなく、ただ漠然と時間を過ごしていた。好きな科目は自分で教科書を読んで勉強した。社会、理科、国語など。それで、小学校の頃は社会や理科はかなりできたし、国語の読解も然りであった。僕は教科書で物語りを読むことが好きであった。

もっとも、中学生の時分から僕の精神状態は変調をきたしはじめていた。今振り返ると現実と理想とのギャップの大きさ、今にも崩れ落ちそうになる生存の不安定さなどがその原因であったと思う。絶え間ない強迫観念と不眠、そこからくる鬱状態が僕を蝕んでいた。その不安を解消するためにも、僕は読書に励むようになった。

よく深夜に純文学の作品や1970年代に出版された古い百科事典を読んでいたものだ。それが、今に至るまで、僕の学問的基礎になっていることは間違いない事実である。もっとも、1970年代の百科事典であるから、その記載事項は古いのであるが、知識獲得の正確性という面では、同時代の(2000年代初期)インターネット上の情報と比べて優位性が高かったと思う。幅広い学問に関するセンスを身につけるという点において、それは非常に有益であったはずだ。

高校の時分において、僕の精神状態はさらに洒落にならぬほど悪化していた。授業はほとんど聞かず、相変わらずカリキュラムなどというものは完全に無視していた。でも、相変わらず読書は続けていた。文学作品や東洋思想、戦記などを熱心に読んでいたと記憶している。キリスト教の学校であったから、聖書なども愛読していた。多くの知識を吸収したが、それはフレームがなく、整合性に欠けた、断片的なものであった。当時から、幾度か知識を体系化しようと試みていたが、僕のまとまりのない精神状態がそれを許さなかった。

大学に入っても僕はカリキュラムを全く無視していて、僕がカリキュラムに添って勉強したのは30代も半ばになった頃、思い立ってWEBライティングの勉強をし始めてからである。

今、僕は体系的な勉強の大切さを深く認識しているし、教育の大切さも、カリキュラムの大切さも、文法学習の大切さもよく理解している。学校の必要性も認めている。

しかし、僕は本から学問を学んだ。過去においては遂に人からは学ばなかったのである。

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