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5.手術までの大試練

0.はじめまして

1.きっかけはラグビー

2.受診までの道のり

3.まさかのやっぱり

4.いつ倒れてもおかしくなかった

1) 手術が決まる

息子の症状から夫の検査につながり、手術をするために、大学病院に紹介されたのは秋のことでした。

2人ともマルファン症候群との診断はつかないままですが、とにかく夫の大動脈基部にできている大動脈瘤はもっとも危険な位置ということで、まず心臓外科にかかることになりました。

私も一緒に行きました。
でも、不思議なくらいその時の記憶がないのです。

マルファン症候群の外来の日だったのか、似たような高身長の方が待合室には複数いらしたことは記憶しています。

たいていは本人や家族が大動脈解離を起こして運ばれて気づくことが多いそうです。

息子から親…という流れで、解離や大きな症状が出る前にわかるケースはレアなようで、よく気づいたねぇと驚かれました。

やはり手術は必要とのことで、手術の内容の説明や、日程などを話しましたが、全然展開に気持ちがついていけずにいました。

「仕事休めねー!」

と相変わらず言っている夫でしたが、腹を決めたようで、11月末に手術をすることになりました。

ただ全く自覚症状はなく、苦しさや辛さもない中での大きな手術。狐につままれた気分でした。本当に必要な手術なのだろうか…と思いました。

今ならばわかります。
夫より大動脈基部が拡張していない人でも、大動脈解離を起こして倒れてしまうこともありました。でもしばらくは、私達はなんだかリアリティのない感覚でいました。

手術は大動脈弁は自己弁を温存し、基部から大動脈弓手前までは人工血管に置き換えるDavid術という術式となりました。

2)手術までの試練の日々

手術までの日々には、これでもかというくらい、困ったことが雪崩のように襲ってきました。

小2の娘は円形脱毛症となり、学校も担任の先生の不登校。(娘のことは、別の機会にも、まとめます)

その間に、息子の七五三を済ませ…

夫の希望で会社の部下ファミリーと古民家宿泊旅行へも。

夫が数か月休むためにご迷惑をおかけする直属の部下の方ですから、できる限りのおもてなしをしないと…とがんばりました。ヘタレな私はアウトドアは苦手。お風呂は五右衛門、ご飯を作るのもすべて自分たちという環境でしたが、食材を大量に買い込みごはんを作りました。

山の古民家で寝袋で眠りにつきましたが、せき込みがひどくて眠れません。なんだかずっと水を誤嚥してしまったような感覚。咳をしてもすっきりせず…寝ていると苦しいので座っていました。喘息発作でしたが、それにも気づかず、咳がうるさくて、みんなに迷惑をかけちゃうなあということばかり気にしていました。

術前検査で夫が入院した際も、付き添う予定でしたが、なんと冷蔵庫が故障!ライフラインであり、最重要な家電です。夫には一人で往復してもらい、私は電気屋さんに走り、買い替え対応をしました。

さらに追い打ちをかけるように息子は溶連菌→りんご病→マイコプラズマ肺炎手前となり、1ヶ月に保育園に行けたのは3日くらい。夫の入院が迫る中、すわ息子も入院か⁈という状況。本当に綱渡りでした。

ヨレヨレになりながら、こどもの病気で小児科に通う私の常連ぶりに調剤薬局の方も同情のお声かけ。夫の手術が控えており、息子が持ち直してくれないと困るんです…とさすがに打ち明けると、「ママが倒れちゃダメよ」と、薬剤師さんも事務の方も心配してくれました。

今ならわかります。
そんな患者さんがいたら、私も声をかけちゃいます。
ポジティブというかなんというか…とにかく目の前のことに必死でした。

こうして振り返るだけでも、ギューっと胸が痛くなります。

そして自分に言いたい。そんなに一人でがんばらなくて大丈夫だから。旅行とか行かなくていいし!とハグして止めたい…。もしくは5人くらい自分を投入したい…。

喘息発作にすら気づかず、無理やり咳止めシロップで押し込めて、乗り切っていた自分に、おいおい泣きたい気分です。

私は鍼灸師として医療のことはそれなりに学んでいますし、家族のマルファン症候群に気づける観察力もあるのに、自分の喘息に気づかない…これは重症です。

でも当時の私に「無理しないで」と言葉だけかけても響かなかったと思います。むしろヘルプを出せず抱え込む自分を責められているように感じたかもしれません。「無理しなかったらどうなるんだよ…」という状況。言っていいのは本気で手伝える人だけだと思いました。

以来、がんばらざるを得ない人、無理せざるを得ない人に、軽い気持ちで「がんばりすぎないで」「無理しないで」とは言わないことにしました。誰しも人生には無理をしなくてはダメな時があると思うのです。そんな渦中にいる人には、具体的に手を差し伸べるか、応援するしか、救いにはならないなあと思っています。

3)一番つらかったこと

思考停止しながらも、とにかく走り抜けていた当時でも、唯一私がつらかったのは仕事を中断したこと。

夫がどんな経過を辿るのかは未知数でしたが、退院後の暮らしが大変なのは、実父で経験していたので、私は仕事を無期限で休む覚悟をしていました。

独立して3年。やっと軌道に乗ってきたところ。でもここは私は家族のサポートに徹するべき。仕事も、師匠や仲間におつなぎしました。夫の入院ギリギリまでは責任もって仕事を続ける気持ちがあったので、降り注ぐトラブルに、予定より早く色々お断りしなくてはいけない状況に追い込まれ、本当につらくて切なくてたまりませんでした。

自分で小さいながらも大切に積み上げてきた仕事です。少しずつ信頼を得てきたところでもありました。

引き受けた仕事は全うしてから休みたかった…

やむなしとわかっていましたが、必死すぎて、その他の自分のことへの感覚は失われていた当時も、そのことだけは泣けました。

つづきます