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宗教は大きなマイルール

「宗教ってなんで嫌われるの?」と聞かれたら?

あなたならなんと答えるだろう。

予想すると「なんでだろうな。」と返す人が多いのではないか。

実際、考えるような機会もないため答えようがない。そんな時に「宗教は大きなマイルール」とすればラフに説明できるのではと思った。厳密には違うだろうし、もっと厳かで尊いものだと思ってはいるが、近い人から聞かれたらそう説明するのはどうだろうと思った。

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大量の願掛けに見た小さな宗教

ある日、TVで成功するため願掛けを大量に行う俳優の話があっていた。その時、小さな宗教を目にした気がした。

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良いかも→願掛け→儀式+信仰

雨を降らせたいと願い、ある場所に石を置いたら次の日大雨が降った。そういった偶然が願掛けという名前に変わり、儀式という名前に変わっていく。

払う代償が大きいほど得られる効果が大きい「気がする」も相まって、儀式が段々厳かになったり、条件もより精度が高いものを要求され出す。

そうして儀式が続く中で、大量の願掛けを行う俳優にも見られたことだが、段々それをしなければ気が済まなくなってくる、願掛けを行う行為に安心し出すのだ。

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宗教は大事な心の支え

行うと良い「気がする」マイルールで自分を安心させ、大丈夫だと言い聞かせる、その偶像はその人にとって、時には集団にとってとても大事なものだ。宗教は不安な人の心の支えなのだ。

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他者発信を押し付けられる嫌悪感

心の支えがなぜ敬遠されがちなのか、その本質も「宗教は大きいマイルール」とすれば説明しやすい。

例えば「会社へは必ず駅の東口から来てね!」と言われたら、誰しも不可解だろう。そして、その理由が「いいことが起こりそう」程度ならこんな面倒で付き合いきれないことはないだろう。

この他者発信のマイルールの押し付けで嫌悪感を抱いたように、恩恵を預かった経験はないが「石を指定の場所に必ず置かなければならない」などルールだけ行なわされる人間からすれば「面倒」でしかないのだ。さらにそれが望んでもいない事や時なら怒りさえ買うだろう。

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宗教が面倒なものになった理由

今の世代はその起源となった遥か昔の事情を知らぬまま、なんとなくマイルールだけ強いられているから「宗教は面倒」だと思うのではないか。または「胡散臭い」などの感情になるのだろう。

宗教は昔の人が体験した様々なことから出来ていて、それを信じたり、はたまたロマンスを感じたりするのだろうが、現代ではそうはならない現実主義者によって様々あるマイルールが「胡散臭い」ものとなってきているのだろう。

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全ては同じ方向を向くか否か

困っていることが同じ内容で同じ熱量なら、その渡される偶像(マイルール)を心強く思うことだってあるだろう。向いている方向によるのだ。もしかしたら自分にドンピシャ合う、心の支えになる宗教がこの世のどこかにあるかもしれない。

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宗教は悪いものではない

結論的に「宗教は大きなマイルール」と説明すると、支えて欲しい方向が一緒なら面倒にも思わないし、むしろ不安な時の心強いお守りになる。

やばい宗教を除いて、特定の宗教を信仰していることを現代人は胡散臭く思うだろうが、都合の良い時だけ神様を召喚する我々よりよっぽど常識人である。

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「良い気がする」に秘められたパワー

他人のマイルールだったとしても、無宗教の人間全員がもらったお守りをゴミ箱に捨てられるだろうか?

いくら胸中で胡散臭さを感じても、ゴミ箱ではなくきちんとお返ししよう「その方が良い気がする」と思う人が少なくないのではないか。

マイルールの構成成分の一部である「気がする」は小さな灯火に過ぎないが、人が行動するには十分な燃料なのかもしれない。


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Q.宗教はなんで嫌われるの?

A.「宗教は大きなマイルールで、他者から発信されたそれを押し付けられることに嫌悪感を抱くから。」

どうだろう説明できていたろうか。


<ひとこと>

そう思ったに過ぎないことを頭から取り出してみたわけだが、議論できる誰かがいるわけでもないので「宗教は大きなマイルール」だと説明するのが正しいのか全くわからない。

人によっては「当たり前のことを書いてる」や「全く違うだろ」があるだろう。その場合は30代がそんなことを考えた日があったのだと人間観察だと思ってもらうしかない。

(ちなみに私は神様的なものを信じているのでお祓いなど安心したいがためのマイルールではなく、祓わないと洒落にならない時もあるのだろうと考えているので今回は表面的な説明のつもりだ。)

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