夫が風呂に入っている
わたしゃ専業主婦なんですが、自宅で時間のあるときに細々とパソコンでライティング仕事をして、お小遣いを稼いでおります。
今はそのカタカタ中。一応Yahoo!ニュースなんかにも載るようなやつなんですが、なんとも筆ならぬ指が進まない。
さっきお風呂に入る前の夫に今日娘としたこと彼女が話していたことなんかを伝えていたけど、おそらく疲労でトーンは低かった。お風呂から出たあとにすればよかった。
夫はお風呂が大好きでえらく長時間入る、まるでモデル女子なんやけど、上がってきたあとはいつもさっぱりしてお喋りも格段にトーンアップする。
問題は、上がるのを待つのが長時間になるので大変なこと。苦笑
今日はじめてこのnoteに1記事目を書いているときから、今の今までも、夕食に焼きそばを作って娘と食べていたときも、さっきパソコンでライティングしていたときも、ふと手を休めるたびに三浦春馬さんの顔が頭をよぎる。
みんなの中からいなくなってしまった経緯や手段、彼の本当の内心、それはもう、どんなに今から疑っても、今後どんなにインターネットの波を泳いでも、私には真実がわかろうはずがないのでもう心の中で追及するのをやめる。
ただ、辛かっただろうと。
死ぬこと自体が、それそのものがだ。
たった一人で。
そして、人が一人いなくなるということの悲哀の影響力も。
けして家族や友人ではない、他人が。
自分がこんなにも芸能人の訃報に打撃を受けて、何日間も落ち込み続けるとは正直夢にも思わなかった。
幼少から体験した、父の途切れることのない病気人生や、(語弊を恐れずにあえて書くと)満を持して迎えた彼の死で、私の生死スイッチは完全に機能停止していたから。
本当の意味で強くなったのかただ麻痺したのかなんてどちらでもいいが、それでももうあのナイーブで神経質な私はいなくなったと思っていた。
満身創痍で肉親の闘病と死を乗り越えた、その経験が人生の8割を占めるような私には、もう赤の他人の人生に、たとえ心は痛めても、深く傷つくことなどないと過信していた。
まだ30代の私には、今以上に山のように傷つくことが残っている。そう思い知らされてしまった、知りたくなかった道しるべでもあった。
どんなに痛く、苦しかっただろうかと。
痛みに耐える父をずっと見てきた。父といえばベッドに横たわる姿だった。
あちらへ行くのは本当に至難のことであると私は思う。
それが受動であれ、能動であれ。
行ってしまった人を、私は敬意でのみ思い返す。
どうやっても到達できないところまで行ってしまった人に、ただここから、自宅から、布団の中から、カフェの椅子から、その「無」に敬意を払いたい。
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