君は残機が100だから
院試が終わった。
数日前、付き合ってもらっていた人と別れた。はじめは殆ど利用するような形で、どんな手段を使ってもいいから、好きな人を忘れるために新しい恋をはじめようと思っていただけだった。私の好意は重い。そもそも私は暗いし重いし気持ち悪い。それなのに、自分の好意は人を傷つけないと信じて疑わなかった。私が誰かと付き合えば、好きな人は手放しで喜んでくれるだろうと思った。好きな人(Aと置く)と対等になりたかった。
そこで選んだのがBだった。複数人での飲み会のあと、私はBの家に泊まった。Bは私を「好きかも」と言った。Bとは一回生の頃から仲が良く、ずっと普通に友達だった。Bは私の崩れてぐちゃぐちゃになったケーキのようなAとの人間関係を、まあまあ近いところで見てきたし、私もBの恋愛をそこそこ近いところで見てきた。私の死ぬほど面倒で死ぬほど根暗で、死ぬほど気持ち悪い部分を知っているはずなのに、Bは私が欲しかった言葉をくれた。二日後、私はAから一番言われたくないことを言われてしまった。そのあと、AとBと私の三人で丸亀製麺へ夕飯を食べに行った。あの暗い夜の、遠くを走る電車の光のことはよく覚えている。Aの前で、私は何度も泣いてしまった。卒業制作の小説にもAのことを書いた。Aは優しい人だと思う。傷つくことを「言わせてしまった」。ずっと落ち込んでいたとき、Bから言われた言葉が光のように浮かんだ。
週明け、私はBに「Bのこと好きになれるかも。付き合ってほしい」と言った。Bは2月いっぱいで地元に帰ってしまう。そのことを知っていて「2月末まで」と繋げた。Bは頷いてくれた。私は喜びながら、Aは喜んでくれるだろうか、と考えていた。
私が付き合おうと言ったとき、Bはどう思ったのだろう。怖くて聞けなかった。好きにならなかったら聞いていたかもしれない。
付き合うといっても、ラインも殆どしないし、通話は一回もしなかった。しばらくは罪悪感に押し潰されて死んでしまいそうだった。「新しい恋がしたくて、めっちゃ好き! っていうわけでもない人と付き合うの、どう思う?」と聞くと、友人たちは「そういうものからはじまる恋愛もありだけど、橘には向いてないと思う」と口を揃えた。Bに対して、好きになれるかもしれない、という気持ちは本当だった。確かに向いていないのかも、と思いながら、私がはじめたものなんだから、ちゃんとなんとかしないと、と考えていた。なによりBに申し訳なかった。
バレンタイン前日、私は腹痛で動けなかった。卒展を休み、一日中横になって翌日のことを考えていた。チョコレートを渡すか否か。どちらを選択しても怖かったから、どちらも選択したくなかった。当日、美味しそうなチョコレートを買って大学へ行った。卒展委員の関係でBと会う予定だったが、タイミングが分からず結局渡せなかった。Aのときは「タイミングを窺うんじゃない! 私がタイミングを作るんだ!」という意気込みで渡していたから、なんだかいろいろなことに力が抜けていくような感覚のまま、帰路についた。チョコレートは、翌日、卒展の受付の机に差し入れとして置いておいた。Aが食べているのを見て、なんだか不思議な気持ちだった。
卒展が終わり、Aと言い合いになった(私が悪かった 私がAのことを好きな限りは、悪は私です)とき、話の流れでBと付き合っていることを指摘された。話し合い自体は省略するが、Aに「せめてBと2月末までと言わずに遠距離恋愛して、本当に無理ってなったら別れて」と言われた。それもそうか、と少し納得した。だけどBの気持ちはどうなるんだろう、とも思った。「2月末まで」と言えば付き合いを了承してくれるだろう、と考えてそう言ったのだから。はじめからその先はなくて、その先がないからこその了承だったのだろう、と思っていた。Aの心情も分からなかった。全員が人間じゃないみたいで、私は心が落ち着かなかった。
数日後、私はBと出かけた。Bと行きたい場所があった。少し前にゼミの男の子が連れて行ってくれたHUBだ。ワンドリンク制で、ハッピーアワーがあり19時までは安い。たくさん話したけれど、何を話したかは覚えていない。酔っていたし、酔った方が楽しいと思ったから。酔うと私は視力が落ちる。Bは顔がきれいだから、うつろな視力で(きれいだな)と眺めていた。
いきなりだが、私にはコンプレックスがある。大きな黒い塊の。抱えて、というよりは、握りしめて生きてきた。一昨年あたりから、それがとてもしんどかった。そのことで心を振り回されたくなかったし、毎日毎日それについて悶々と考えて、泣きながら眠るのがつらかった。Bはその大きな黒い塊を、共感したうえで払拭してくれた。その日から私はそれについて考えなくなった。眠る前に泣くこともない。
私は何度もBに尋ねた。面倒な問いを重ねた。Bは優しかった。1回生の頃からずっと優しいままなのに、どうして今まで気付かなかったのだろう。
遠距離恋愛したら、ってAに言われた。 と、私は言った。同じことを言われたとBが答えた。でも遠距離って何するの? 通話? のようなことを話したあと、Bは春からはじまる互いの新生活のことを切り出した。生活リズムがどうとか、たとえば2年後もまだ付き合っているかどうか分からないとか、そういうことを言っていた。そうなんだ、と他人事のように聞いていた。そんなことどうだってよかった。
「簡単に会える距離じゃないし。橘は今Aから他の人に目を向けてみようと思えているのに、会えない恋人がいたらチャンスを逃しちゃうよ」
そういうようなことをBは言った。大人だな、と感じた。
私はBを促した。「Bから振ってほしい。2月いっぱいまでって言ったけど、今日別れないと私の悪い癖でずるずる引き延ばしちゃうと思う」と、Bの顔を見ないで言った。
「新しい恋できるかな」
「今できてるじゃん。そんなのタイミングだよ。絶対うまくいくよ」
Bは励ますような声色だった。絶対うまくいくよ、と言われたときのことを思い出すと、泣いてしまいそうになる。未だに。
別れてから、ずっとBのことを思い出してしまう。正直院試どころではなかったが、考え事が分散したおかげであまり緊張せずに済んだ。
Bのアカウントを探して、浴びるように文字を追った。Bの言葉が好きだと思った。けれど、少なくとも私の求めている「好き」はそういう類のものではない。作者と作品を結びつけてほしくない。それなのにBの言葉が好きだと思ってしまった。Aの小説が一番面白いと思っていたときのように。
美しくないと分かっていながら、院試の翌日、私はBに電話をかけた。
美しく切れるハサミと知りながら素手で破いてばかりの終わり/千原こはぎ
とても好きな短歌である。初読のときから脳にこびりついている。電話をかけながら、私の頭にはこの歌が浮かんでいた。また素手で破いてしまうのだと思っていた。
しかし、Bは美しく切れるハサミを使った。
遠距離はしない。だけど、くだらないラインは付き合うし、時間さえ合えば電話もする、とBは言った。ハサミは真っ直ぐ突き進んでいく。
そのとき、私は「じゃあ今日バイトが終わったらラインしていい?」と訊いた。「するよ?」だったかもしれない。あまり覚えていない。Bは少し驚きながら了承してくれた。結局、今まで一通もメッセージを送っていない。「くだらないライン」の定義が分からない。本当に気持ち悪いラインを送ってしまうかもしれないことが怖い。私は自分の何気ない言動が、受け取り手を不快にさせる可能性があることを知っている。言葉はおそろしい生き物だから。
電話の最後の方で「Aに本当に嫌われたかも」とBに漏らすと、Bはあっけらかんとした口調で「Aはずっと前から橘のことが嫌いだったよ。でも友達関係は続いてたじゃん。だから大丈夫じゃない」と言った。2回生からほんの数ヶ月前まで、私はBのこういうところにいちいち傷ついていた。けれど、何も思わなくなっていた。
くだらないラインってなんだろう。そのことと、Bに言われた言葉のことばかり考えている。聞いてほしい話は山ほどある。だけどそのどれが良くてどれが良くないのかが分からない。
橘といると楽しいから、とBは言った。私はそれがとてつもなく嬉しかった。Aがすべてだったからあまり考えたことがなかったが、私もBといるのは確かに楽しかった。友達は基本的に楽しい。面白いし優しい。もっと早く、他の世界に目を向けていればよかった。でもそれはBの言うように「タイミング」なのだろう。Aも楽しくて面白くて優しい。甘えていたと思う。それなのに、Aに嫌われたら終わりだと思い込んでいた。私の残機は1なのだと疑わなかった。
もうすぐ2月が終わる。Bが地元へ帰ってしまう。エッセイなので一応ふっきれたかのような終わり方をしておくが、実際のところは何もすっきりしていない。ただ大きな黒い塊が、石ころほど小さく透明なものへと変わり、私のこの気持ちもいつかそうなることを願っている。(それと、Bがまた小説を書くようになることも願っています あといつでも大阪に戻ってきて)