#94 思考する個、思考しない個


私たちは成長の途中に、ふとこのような問いを自身に投げかける。

「私はなんのために生きているのだろう?」


この問いを深く考えると、多くの人は精神的に病んでしまう。

何故だろうか、、、簡単なことである。

そんなものに明確な答えなどないからだ。

もし答えがあるのならば、それは自分で決めたテーマであり意志でしかない。

多くの人は何処かのタイミングでこの問いにぶつかる。それは中間試験のように期末試験のように定期的でなくとも不定期的に訪れる。

おそらくこれは、成長過程でとても必然的に必要な問いなのだろう。

わたしは、Wbasicという概念で、人の持つ価値観や自由を理解できるようにと日々、学びを深め伝えようと心がけている。

そこでこの問いについてわたしが思うのは、この問いが自身に訪れたなら、それは人として精神的に成熟を迎える時期が来たというシグナルではないかと感じる。

前回#93で心の理論の話をしました。

内容は、4-6歳頃に他者の心を類推し理解する能力を獲得するという話です。二つの視点を同時に理解し重ね合わせ、合理性のある答えを導き出す。

そして脳内で行われる作業はワーキングメモリの量によって一時記憶の量を増やし、より複雑な作業を可能にするというものです。

人は自身の行動を客観視することで、自身の行動がその場その時に、適切か不適切かを瞬時に判断することができると思われます。

一つは行動している自分(思考しない個)。もう一つは過去のデータをもとに、今フィードバックされた情報を照らし合わせ、次に行うべき行動が適切か不適切かを精査している自分です(思考する個)。

このように自分を俯瞰することができることから、洞窟の中に自我は囚われており、我々が見ているのは影で実体ではないと哲学ではいわれていたのでしょう。(プラトンのイデア論)

イデア論:プラトンが説いたイデアに関する学説のこと。本当にこの世に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚している対象や世界とはあくまでイデアの《似像》にすぎない。

引用

話を戻しますが、日々の生活で無意識に行っている生存活動が反射・反応的に行われ、自身の理念・意志に沿わずに乖離していくと、肉体である自身の行動は本当の自分なのかと疑問を抱き、このような問いが芽生えるのではないでしょうか。

つまり、この問いが自身に見られたとき、その人の精神活動は次のステージに向かうための分岐に辿り着いたことになる。

そこで、自身の意志や理念を再確認し、今後の自身の生き方を鮮明にすることでより自分らしい生き方を手に入れる絶好の機会として先ほどの問いが自問されるのではないでしょうか。


ふたつの生き方


生き方には大まかに二通りある。

ひとつは、反応・反射的に生きる生き方。(受動的行動)

もう一つは、主体・意識的に生きる生き方です。(能動的行動)

前者は、多くのことを受動的に行い、省エネルギーで生きる方法です。そうすることで自身で無駄に考える必要はなくなり精神的に楽になります。

しかし、デメリットもあり、自身で選択してるつもりでも本当は自身で選択はしていないため、本人が意図しない幸福と不幸を得るようになる。

幸福は喜ばしいものですが不幸は困ります。基本的に他力本願的で受動的な行動は管理された行動ではないので、偶然性が高くなります。

このような生き方で良い結果を生み出すためには、有能な牽引者が必要になる。社会にいる有能な人の中には、自身の周辺の人間に良い影響を与えようと努力するので、その人の言うことを聞いて後をついていくだけで良い。

楽な方法ではあるが、人を見る目を持っていないと多くの場合は痛い目をみて不幸になる。社会には優秀な羊飼いの周りで狡猾な狼が獲物を捕らえようと手ぐすねを引いてまっているためです。

このような生き方を選ぶことが必ずしも悪いことではないが、別の生き方もある。

それが後者の主体・意識的に生きる生き方です。

この生き方を選ぶことは困難が伴います。なぜなら、多くのことを思考しさまざまな選択を行い、その結果の責任を受け止めなくてはならないためです。

自由とは聞こえがよい言葉ですが、多くの場合、責任を伴います。行動の責任をとることにより自由になるともいえます。

例えば、個人事業主は自由で気楽で良いと思われます。確かに時間に融通が利き豊かな生活を送っているのであればそうなります。

しかし、サラリーマンと違い、いつ収入がゼロになるかはわかりません。また、生活の保障や有休など福利厚生も自身で行うので、そこまで金銭的に行き届かない事業主は大変です。

隣の芝は青いといいますが、悠々自適などではなく自転車操業の場合だってあるでしょう。

それでも固定給を得て暮らす人の中に個人事業主に良い印象を持つのは、先ほどいった自由に選択しているようにみえるところにあるのではないでしょうか。

人生塞翁が馬とはいいますが、何もかもが風任せでは自分の描いた人生を送るのは容易ではありません。

自分が求める目的地にたどり着くためには、必然的に後者の生き方を選ばざるえない。

またこの違いは、一部の動物の暮らしに似ています。

前者は、動物園の中で暮らす動物。後者は、サバンナで暮らす動物です。

動物園で暮らす動物は、来園する人たちに自身の希少性を利用し、魅せることで生活を保障されます(動物園は絶滅危惧種の保存などの役割もあるので必ずしも営利目的ではありませんが今回はそのようなことはないものとします)。

一方、サバンナで暮らす動物は日夜、自身より強いものの恐怖を感じながら獲物を求め自由に走り回ります。獲物が捕れないときは食事にありつけません。  そのため、野生の動物は餓死することも常です。

ですがサバンナに暮らす動物は行動制限が少ないため自由に見えます。

どちらが良いというものではありませんが、後者には自由意思によって選択された行動による充実感や達成感がある。

特徴的な違い


この二つの生き方には特徴的な違いがあります。

それは、前者は外から内にエネルギーが流れ、後者は内から外にエネルギーが流れているところです。

ちょっと想像してみましょう。

つづく


最後まで読んでいただきありがとうございます。

Himeさん画像を使用させていただきました。

毎週金曜日に1話ずつ記事を書き続けていきますのでよろしくお願いします。
no.94 2021.11.26

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