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かつて目指した「なりたい」は

私は10年ほど前まで、作家になりたかった。
正確に言うと、フィクションを書く「小説家」になりたかった。

過去形なのは、今は目指していないからである。

それは筆を折るような出来事があった訳でも、生活環境の変化から目指せなくなった訳でも、大きな挑戦をして身の程を思い知って諦めた訳でもない。

自分の書いた小説で、紛れもなく究極の「満足」をしたからだ。

私の執筆活動はHAPPY ENDを迎えることができ、優秀な成績を修めて現役引退するような気持ちで、筆を置いて今に至る。

仰々しく言っているが、私の中では言葉の通り。
でも世間的には何の波紋も起きない、些細にも程がある出来事でしかない。

何故なら、私が小説を書くことで得たかったものは、「親交を深めたい相手とのコミュニケーション」だったからである。

そもそも、私が小説を書き始めたのは、その前に創作で人との繋がりを得ていたからだった。

小説を書くようになるまで

小学校低学年の時、どういうきっかけだったか忘れたが、クラスメイトの一人と紙芝居を作っていた。

それが私の創作活動の始まりである。

当時流行っていた文房具の可愛いキャラクターを使って、更に登場人物を勝手に増やしたもの。
(今思うと二次創作だった)

話の内容もよく覚えていないが、メインのキャラクターの相手役とそのペットの犬との生活を絵と文章に起こしたものだった。

休み時間ごとにどちらかの席に集まって、時には廊下の広いスペースに紙を広げて、自由帳のページを破っては書き進め、何十もの紙に書き起こした記憶がある。

1、2年生ではクラス替えもなかったため、紙芝居を通じた交流は続いた。

私は引っ込み思案な子供で、自分から輪の中に入ることが苦手だったし、外で遊ぶのも得意ではなかった。

だから、紙芝居というクローズドで安定した交流は、心地よいものだったんだろう。

詳しいことは何も覚えてないが、創作=交流手段の図式が出来上がったのはこの時だと思われる。

3年生に進級して、クラス替えがあった。
紙芝居を描いていたその子とは別のクラスになってしまい、紙芝居を描くことはぱったりとなくなった。

この頃、私は少女漫画との出会いを果たす。

住んでいたマンションのベランダ前に公園があり、定期的に地域の子ども会が廃品回収を行っていた。

その回収物の中には漫画雑誌があり、業者が取りに来るまでの間に気になるものは、子供が持っていくのが慣習になっていた。
(本当はダメなやつだと思うが、たまたま苦情が無かったんだろう)

父の仕事の都合で我が家は転勤族だったため、いつ引越しになるか分からない。
あまり役割を持ち回りするような会合には積極的でなかった。

そういう事情から私は子ども会には参加していなかったが、友達が何人かいたため時々混ぜてもらった。

大人の事情を知らない子供にとやかく言う人はおらず、いつからか私も回収を手伝い、最後に漫画雑誌をもらって帰るようになった。
(最終的には会費を払って子ども会に入って、親も参加になった)

この時まで漫画に触れたことがなく、何も分からなかったため友達に勧められるままに、「ちゃお」と「りぼん」を手に取った。

衝撃だった。

目が大きくてキラキラした可愛い女の子や、男友達が言わないようなキザなイケメン、展開される「恋愛」ストーリー。

ませたコンテンツに厳しい親だったので、この頃はまだNHK以外のテレビ局の番組は見せてもらえなかったし、小学校を卒業するまで夜9時には寝ていた。

ゲームもやったことはないし、漫画はもちろん。
市内の図書館、学校の図書室で借りられる本以外のものを初めて読んだ。

刺激的な世界に夢中になって、一年も二年も前に刊行された少女漫画を何度も何度も繰り返して読んだ。

つい最近まで創作をしていた私が、真似して漫画を描き始めるまで時間はそうかからなかった。

ただ、圧倒的に絵を描いてきていない、漫画を読んでいない子供がそう上手く描けるはずもなく。

それでも自由帳にコマ割りをしてせっせと描いていたが、4年生に進級して、凄く上手い絵で漫画を描く子とクラスメイトになった。

彼女は休み時間の人気者で、描いてもらった絵を自慢げに見せびらかすクラスメイトがいる中、同じく漫画を描いているとは言えなかった。

これはもう単純に恥ずかしかったからである。
下手でも人前で紙芝居を描けていたのは、低学年だったから。

周りもませ始めた中学年の頃には、上手くなるまで続けられなかった。

その代わり、クラスメイトの男の子とギャグ漫画を描き合っていたのを覚えている。

下品で面白ければ、絵が上手くなかろうが笑ってくれる。当時は知らなかったが、コロコロコミックのノリが上手く掴めていたのでウケたんだと思う。

何故彼とそんな仲になったのかは覚えてないが、多分席が隣になって、ノートに落書きをし始めたとかそんなことだろう。

漫画を通した交流はとても楽しく、特別な時間だった。紙芝居の時と同じような高揚感があった。

でもこれも、長くは続かなかった。
異性と仲良くしているとからかわれるから。

少女漫画を読み始めた当時の私には理解できた。
恋愛に憧れる、クラスメイト達の好奇の視線が。

別に彼に対して恋愛感情を持っていた訳では無かった。
というか同じクラスの別の男の子に初恋をしていたので、そんな噂が立つのが本当に嫌だった。

こんな単純なあるあるで、自然と疎遠になっていき、同時に漫画を描かなくなっていった。

紙芝居や漫画で、創作を通した交流する楽しみに味を占めたのは、私の気質にただ合っていたからではない。

初めてのクラス替えをした3年生の頃から、特別仲の良い子ができなかったからだ。

気軽に話しかけられるクラスメイトが殆どおらず、所謂二人組の相方を探すのに困る状況に陥っていた。

余った人と組むのが当たり前で、誰かの親友、相方といった友人関係になれなかった。

子ども会に入ったのも、そういう事情を察した親が許したからだったんだと今ではわかる。

幼稚園からの持ち上がりなどで学年に話せる子はいるが、態々休み時間に別のクラスに行ける積極性はなく、クラスメイトと交流を深めるのが苦手な、本当に孤立手前の子供だった。

クラブも委員会も大した時間を割かないため、クラス単位の行動を余儀なくされる時期、クラスメイトの女子と上手くいかないことは致命的だった。

(余談だが、登下校を3年生まで共にしていた、向かいのマンションの男の子がいたが、例の好奇の目に晒されて一緒に帰ることが減ったため、急にクラスの女子との交流が必需品となり本当に困っていた)

絵が上手く描けないことがコンプレックスになり、漫画を描かなくなった私。

人との交流につまづき続けている私。

どんどん性格は暗く、自信を失っていくし、そうすると人を遠ざけてしまうループに陥る私。

ここまでで分かる通り、当時の私は孤立から抜け出す方法を「創作」しか知らなかった。

創作」に縋っていたと言っても良い。

一人の時間が増えていくにつれて、本だけは多く読んでいた私が、次に始めた創作が「小説」だった。

そうして5年生の頃から、自由帳ではなく罫線ノートに小説を書き始めた。

またクラス替えがあったが、今度はたまたま気の合う子が話しかけてくれて仲良くなった。

しかも、その子は色鉛筆画が上手く、私の拙い小説に感想を言い、空いているスペースに挿絵を描いてくれた。

このままこの子と交流を深めたいと思った矢先。

1学期の終わりのタイミングで、私の転校が決まった。

ここまで九州に住んでいたのだが、この地に住んでから父の九州近辺への単身赴任だけで凌いでいたものの、関東への異動辞令があり、そういう訳には行かなくなっていた。

小学校に上がる前のタイミングで何度か引っ越しはあったが、ちゃんと物心がついてから、しかも転校は初めての経験。しかも見知らぬ土地。

2年の間に孤立しかけた私が、ようやく手に入れた友人とたった4ヶ月で別れを告げることになった。

小説に縋り始めた

コテコテの九州弁で話す人見知りの私を、転校先のクラスメイト、特にクラスカーストトップのグループは田舎者だと揶揄した。

誰も知り合いのいない学校で、しかも1年の途中に入ってきた私が孤立するのは当然のことだった。

しかし、面倒見の良い近所のクラスメイトが私と下校の時だけ話してくれるようになった。

学校の中では話せなかったが(クラスカーストトップのグループに一応所属していた彼女の立場としてしょうがないが)、コバルト文庫が好きで小説を書いていること教えてくれた。

(転校する前に、私はコバルト文庫の有名作「マリア様がみてる」にドハマりしていた)

まさか孤立無援の地で同じ趣味を持つ女子がいるとは思わず、立場を理解した上ですぐに仲良くなった。

彼女とは中学に上がっても、一緒に文芸部に入ったりすることになるのだが、共同制作ではなく、放課後にお互いの作品を見せ合う形で交流を深めた。

恐らく人と交流出来たことで明るさを取り戻していき、丁度クラス内の仲良しグループ編成の変化があった時期に、どさくさに紛れて他のクラスメイトとも教室で話せるようになっていった。

ようやく私にも仲良しグループ、二人組の相手に困らない状況が訪れたのだった。
ちなみにこのグループでは小説を書いていることは言っているが、読ませたことはなかった。

また、この頃に生まれて初めてゲーム機(DS)を手に入れ、TVCMで散々宣伝されていたオンラインゲーム「メイプルストーリー」に興味を持っていた私は、
厳しい親が何故か反対しなかったので家のパソコンで、学校と家族以外のコミュニティ入りをする。

(メイプルストーリーはパソコン環境の都合、起動しなかったため、同社提供のテイルズウィーバーにのめり込むことになる)

ソロ活ではなく、ゲーム内のクラブ(交流用グループのようなもの)に所属し、年上のプレイヤー達と交流を始めた。

(ネットリテラシーなんて何も知らない私が、安全にゲームをできたのは彼らの優しい導きのお陰である)

何が言いたいかというと、この時点で私は気づいていないが、「小説を介さない交流」が2つのコミュニティで出来るようになったのだ。

大人になってから聞いた話だが、この時期に至るまで私は、母親に何度も「友達が欲しい」と言っていたらしい。

既に創作の力は要らずとも、望んだ親交を持てるようになったが、ゲームに時間を取られつつも、厳しい親が一日1時間までという制約を課したため、小説の執筆はその後も続けられていた。

小説新人賞への応募

小学5、6年生はクラス替えもなく同じメンバーで楽しく過ごし、中学に上がるとメンバーこそ少し変わったものの小説を書いている彼女と同じクラスになった。
一緒に文芸部に入り、また「創作」を通じた交流も出来た。満ち足りた日々だった。

しかし中学1年生の終わりに、また転校の話が来た。

小学5年生の時よりめちゃくちゃ嫌だった。
他県に引っ越すことになるし、ようやく波に乗れたのにまたリセットすることになる。

でもこのタイミングで転校しない場合は、高校生の途中で、となるらしい。

当時は分かっていなかったが、高校は受験が必要なので転校が一般的ではないし、受け入れてもらえる学校が少なく、学力に応じた適切なところに入れる保証がない。

そういう訳で、結局転校することになった。

大人になった今は理屈で納得できているが、ハブりを越えたいじめにも遭うし、これが本当に最悪だった。(詳細は割愛)

中学2年生となる転校先は、小学校よりも残酷で、暗くて人見知りの転校生にとにかく冷たかった。

方言はとっくに直しており、共通語で喋るもののとにかく見知らぬコミュニティが怖いし、クラスメイトに受け入れられなかった時の辛い日々を思い出して、上手く会話できないというデビューを果たし、あっという間にクラス内で孤立した。

私は自分のことを運が良いと思っているのだが、たまたまこの時、引越し先のマンションに同じ中学の同級生の女の子が住んでいた。

しかも本や漫画が好きで、面倒見が良く人見知りをしない優しい子である。別のクラスだったが。

クラス内では上手くいかなかったが、この子が所属する美術部に入ることでコミュニティに所属することができ、クラス以外での居場所を得たのである。
(同時に二次元オタクと化した)

美術部なので絵を描く子が多いのだが、小説を書く私も自然と受け入れられた。
とはいえあまり美術部の部員に小説を見せた記憶はなく、一人で書くことを続けていた。

そんなある日、何がきっかけだったか思い出せないが、クラスメイトの中でも比較的全員に平等に接する中立な女の子が、私の小説を読んでくれることになった。

この中学では、朝に10分くらい読書の時間を毎日設けている。その時間に私が書いた小説を読んでくれるようになったのだ。

罫線ノートへの手書きから、オンラインゲームで培ったタイピング技術を活かしてWordへの打ち込みに移行した私は、毎朝5時に起きた。
余白を最も少なくしたレイアウトのA4用紙1枚びっしりに小説を書いては、登校後に彼女に渡して読んでもらうことを続けた。

付箋に少しの感想を書いてくれて、それがとても嬉しかったのを覚えている。

彼女とは同じ仲良しグループになることはなかったが、別のクラスメイトと話せるようになり、ほんの少しだけクラス内の交流も改善した。

私はまたコミュニケーションに困窮したら、小説に縋り始めたのだった。

そんなことをしていたので、当時に書いていた小説は400字詰めの原稿用紙300枚を優に超えるボリュームとなった。

これをどうこうするつもりは無かったが、当時ハマったライトノベル「文学少女」シリーズの主人公が、小説新人賞を14歳で受賞しており、自分も新人賞に応募できることを知っていた。

作家になりたい気持ちが強かった訳ではないが、最早毎日小説を書いているのだから挑戦してみても良いのではないかと思った。

自分が書いているものがライトノベルなのかどうかすら分からないまま、とりあえずラノベ新人賞で検索し、一次選考落ちでも講評シートをくれる賞に応募した。

クラスメイトの彼女のために毎日更新しているため、まだ展開がある予定だったが、賞のために無理やり終わらせたファンタジー小説。

結果はもちろん1次選考落ち

自分なりに推敲もしたが、ろくなプロットも立てておらず、自分と他人を繋ぐ架け橋のためのツールだったのだから当然だった。

講評は14歳であることを考慮して書かれていた。
キャラクターもストーリー展開も低評価だったが、文章力については年齢の割に上手だと褒められていた記憶がある。

コメントにはもう少し詳細なアドバイスと「もっと様々な経験をしてまた応募してほしい」といった趣旨の記載があった。



様々な経験をする?



目の前の対人関係で精一杯の私はゾッとした。


これ以上世界を広げないと良い小説は書けないのか、と絶望に似たものを感じた。

今のままでもより良く出来るはずだと、同じ賞にその後2回応募し、2次選考まで進めるようになったが、それより先は無理だった。

人生に小説執筆が必要か

高校受験は失敗して滑り止めの学校に行くことになるのだが、その受験校を選ぶ時には同じ中学の人間が誰も選ばないだろう、かつ文芸部がある学校にした。

校風が今どきの子受けを全くしないため、穏やかで優しい子達ばかりが入学する最高の学校だった。
どのクラスメイトとも一定以上仲良くなれたし、部活も楽しかった。
高校受験を失敗して本当によかったと思っている。

予定通り文芸部に所属した。
ずっと長編の小説を書いてきたが(人に定期的に見せるために更新する必要があったため)、部誌(部員の小説をまとめた冊子)の発行頻度から、短編小説しか書けず四苦八苦した覚えがある。

その頃から前述の新人賞の壁にぶち当たったこともあり、部誌のための最低限の作品数しか、書かなくなり始めた。

恐らくクラスメイトとの溝に悩まされることがなくなり、小説を書く必要がなくなったのが大きな原因だと思うが、当時はそんなことを分かっていない。

オンラインゲームを通して、ネットでのコミュニティ参加の楽しさを覚えた私は、並行してとあるチャットコミュニティに所属し、それを経てTwitterを始めた。

Twitterではいろんな創作者と巡り会えるが、その中でも一際好きなイラストを書く同い年の高校生に出会う。

当時はアマチュアでとある界隈では名が知れているような存在の彼女に、私は名前を出して事あるごとに好きなイラストを褒め続けた。

好意が余っての言動だったが、その結果彼女に認知されることとなり、色々あって彼女の通う高校の文化祭に招待してもらえる仲になれた。

彼女が高校時代に描いた集大成となる、もちろんネットに公開していないイラスト達を見ることができ、そこでしか売っていない冊子やポストカードを入手した。

その後も彼女とTwitter上で親交を深めていった。

大学生になり、私はまた文芸サークルに加入した。
高校3年生の頃には受験という大義名分で、卒業制作以外の小説を書かなかったにも関わらず、曲がりなりにも学校の中で、創作者から離れたコミュニティに全く所属しない勇気がなかった。

しかし大学でも交友関係に恵まれ、自覚していないが小説を書く意義は見出せていなかった。

そんな状況なので、卒業まであまり作品数は書かなかったのだが。

とはいえ、創作者に囲まれた生活は、私もまだ書く側である自負を持たせてくれたので、気が向けば短編小説に起こしていた。

具体的には、二次元オタクまっしぐらだったので、とある作品の二次創作にお熱だった。

二次創作というものは、何らかの作品に感銘を受けた第三者が、その世界観やキャラクターを用いて、原作にない話を創作する行為である。

(純粋な好意に基づく二次創作である、かつ作者が好意的に捉えていることが大前提だが、)自分の作品を二次創作してもらえるのは、上位のコミュニケーションではないかと惹かれていた。

創作には労力がかかる。
それも第三者が想像している何倍もだ。


この10年程で痛いほど感じていた。
こんなに面倒なもの、突き動かす何かが無ければやってられない。

その労力をかけてまで、自分の創作した物語に熱中し、更には残した余白を想像した上に、作品という形にする。

労力に労力をかけて返す、創作者にしかできない上位コミュニケーション。

好意を持った相手とのコミュニケーションに飢えてきた半生を持つ私には、自分の小説を二次創作してもらえたらどんなに良いだろうと思っていた。

最早、憧れであり

しかしこの頃にはそんな熱量で執筆に取り組んでいない。

作家になりたいという考えもいつの間にか消え失せている。誰かに二次創作したいと思ってもらえる小説を提供出来るわけがない。

どういう流れでそんなことが実現できるのか想像もつかず、殆ど諦めていた。

そんな折、自身の高校の文化祭にまで招いてくれたイラストレーターの彼女が、趣味で漫画を描き始めたのだ。

そこで新たに登場させるキャラクターの設定と立ち絵を公開した上で、名前募集をしていた。

ファンである私は考えに考えた名前を応募し、それが採用されることに。

それ以降、私も特にそのキャラクターに思い入れも湧き、時々二次創作めいた妄想を相互フォロー状態のTwitterで呟くようになった。

それが彼女の解釈とも一致していたらしく、喜んでもらえているようだった。

それが嬉しくて、年の瀬が近いある時「いっそ小説に起こしたい。何なら年賀状にびっしり書いて送る」と冗談半分で伝えたところ快い返事が。

予告通り、年賀状の裏面に小さめの文字でびっしりの二次創作を送ったところ……………



彼女が、その小説をイラストに起こしてくれた!


大好きなイラストレーターが!


私の小説で絵を描いた!!!!!!!!!!!


思いがけず叶った夢に長年蓄積した何かが、すーーーーーっと消えていくような感覚を覚えている。

そして、小説を書くのをすっぱり辞めた。

何度も言うように、私にとって小説、もとい創作とは、アプローチしたい他者とのコミュニケーションツールに過ぎなかった。

でも、創作がなくたって恵まれた交友関係を育むことができるし、創作を通してしかできないコミュニケーションも極めたと分かった。

文字通り、創作から卒業したのだ。

新人賞の講評通り、様々な経験をしたら小説執筆が私には必要ないということが分かった、というのは皮肉な話だが。

視野をそこまで広げることが出来たのは本当に良かったと思う。

と、同時に……………………


私ってずーーーーーーーーーーっと女友達を欲しがってる人生だな?????????


もうしょうがないので、これは宿命だと受け入れ、今後も交友を深めていきたい。

今の私が本当にやりたいことは、一生女友達と遊んで暮らすことなんでね!!!!!!