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イントロダクション


 いずれにしても、二十世紀はアメリカの世紀だった。これからもそうであるかは別として。
 本書は歴史の書物ではない。アメリカのミステリの変遷と、その書き手たちの転変を考察する。ほぼ発表年代を追って作品を並べた。目次を見るとガイドブックのようだが、まるごとミステリガイドではない。
 十年ほど前の世紀末と呼ばれた時期に比べると、未来への展望を語る論調はかなり確固たるものになってきていると感じる。明であれ暗であれ、漠然とした期待や不安はなりをひそめてきた。希望が水増しされたのか、それともさらに目減りしたのか。
 グローバリゼーションに向けての楽天的な見通しは花盛りだ。世界はもっとアメリカ化する?
 本書の体裁は「百年で百冊をふりかえる」式に従っている。重要な作家については複数項目にわたったケースもあるが、原則は、一人一回の登場だ。年代順の名作・問題作リストが語るのは、明日への希望だろうか。それとも昨日への幻滅だろうか。もし公正な判断があるとすれば、それは寛容な読者の判断にゆだねたい。

 エドガー・アラン・ポーは、この分野の草分けとみなされている。
 ポーに「群集の人」という短い小説がある。ミステリの出立点とされる「モルグ街の殺人」に少し先立つ時期に書かれた。「群集の人」によって二十世紀ミステリの扉は示された。
 「群集の人」は一人の語り手によって語られる。彼を探偵の元型と認めることは、かなり強引な読み取りになる。この短い小説にはストーリーが欠けている。語り手の行動は、おおかたは観察者のものであり、受動的だから、彼を登場人物の一人と考えるのも無理がある。彼は作者自身のイメージから少しも出ていない。
 彼はある秋の夕暮れ、ロンドンのカフェに腰をおろして群集を観察している。彼は書く。というより、作者の独白めいているのだが、「世の中には語りえない不思議がある」と、荘重をよそおって書き出している。彼は病みあがりの回復期にあって、行き過ぎる雑踏を眺めている。
 小説の前半は、夜ふけにいたるまで彼の目に映りすぎていく「群集の人」の報告にあてられる。そのうち彼は痩せこけたみすぼらしい老人に目をとめ、魅せられる。男の秘密を探りたいという欲求にとらわれる。彼は老人を尾行する。小説の後半は、未知の男の尾行と監視が占める。静から動への移行だ。
 ふつうの読み物であれば、これは事件の入口にすぎない。何かが次に起こる。
 しかし「群集の人」では何も起こらない。彼は明け方まで尾行をつづけ、次の日も、驚くべきことに、休みなく都会を移動する。二日にわたる無為の尾行の果てに、彼はようやく結論をくだす。この老人は「群集の人」なのだと。そうした存在の心の中を覗くことはできないのだと感慨して、小説の書き出しにもどる。語りえない不思議な事の例がここにあったと。
 この老人の犯した犯罪などを期待する者にとっては、小説は竜頭蛇尾を思わせて終わる。
 作者は、「犯罪のエッセンスは、ついに顕われることがない」とか、素知らぬふりをして最初に書きつけている。
 いわば、これは、ポーが開示した未完の謎かけでもある。
 後代のミステリ作家は、群集のヴェールの向こうにある犯罪の発見に到った。群集と犯罪の相関について、ポーが示唆した通路をとだった。しかしこれだけでは充分でない。
 ポーの最初の理解者だったボードレールは、『巴里の憂鬱』に書いている。「群集〈マルチチュード〉と孤独〈ソリチュード〉とは、置き換え可能な言葉だ」と。「群集の人」を解析する議論の初めのものだが、最も基本的な解釈だろう。「群集のなかの孤独」という命題は、さまざまな曲折を伴って二十世紀のミステリに流れこんでいく。
 ソリチュードの奥底にあるマルチチュードの発見。単独者の魂をかき乱す群集という不可思議な万華鏡の探究。ポーを継いだアメリカのミステリの一世紀はそのことに費やされた。長い探索の旅は、ポーの謎かけによって始まった、といっても過言ではない。

*各書名には、発表年と邦訳データを記した。現在品切れのものあることをお断わりしておく。
略号 S―創元文庫、推理およびSF
   H―ハヤカワ文庫

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