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小説「雨はどこにも訪れる」一話

春、とある小説の賞に応募した作品です。
勝手に短編連作のオムニバス形式にして、二話書きました。
残念ながら落選しましたが、せっかくなのでnoteに掲載いたします。

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一話「レモン症候群」

石が敷き詰められた幅の狭い坂道が、ゆるやかにカーブしながら上へ続いていた。
道の両側に並ぶ建物の屋根には、大粒の雨が当たっている。
花屋の屋根を伝って落ちた水が、その下を歩いていた男の真っ青な傘に降り注いだ。
男は少し傘を持ち上げて、曇り空を見上げた。
「日没が近いな」
そう呟いた声は、喋ることに慣れていないように小さく、低いものだった。
男は粗末な生成り色のシャツにグレーのスラックスという格好の上から、透明な雨合羽を羽織っていた。
登山者のように巨大なリュックサックを背負っている。
冴えない容貌の男だったが、その目だけは灰色がかった不思議な青色をしていた。
「早く今夜の宿を探そうよ」
少女のような声が、男の肩の辺りから聞こえた。
声の主はウミウシのような紫色の軟体生物で、男の頬をつつくように小さな触角を伸ばしている。
動物に詳しい者が見れば、あめふらしと呼ばれる生き物だとすぐに分かるだろう。
「この坂の上に、きっとある」
男はあめふらしの言葉に小さく頷いて答えると、顔を上げて坂道を登っていった。


大抵の街では、坂の上に教会や人の集まる店があって、近くに宿屋を見つけることができる。
しかし、坂を登りきった男が大通り沿いに見つけたのは、廃墟になった古い劇場だけだった。
壊れたネオンの看板が掲げられた、苔むしたレンガ造りの建物の前に立って、男は辺りを見渡した。
既に日は落ちきっていて、人の気配もまったくない。
「しょうがない、今日はここに泊まろう」男がそう言うと、あめふらしは肩の上で平べったくなってみせた。
「湿気があるのは気持ちいいけど、なんだか不気味だよ」
男は傘を閉じて建物に入る。
リュックの横のポケットから懐中電灯を取り出して、素早く左右に光を走らせた。
壊れた観客席のイスがいくつも転がっていて埃っぽい他には何もなく、安全だと判断した男は暗い建物の奥へ進む。
「舞台の上なんか眠るのにいいんじゃない?」あめふらしがそう言った。
「足を伸ばせるとありがたいな」
男も同意して、顔の前に光をかざしながら舞台を探す。
まっすぐ伸びる光が、不意に雨の幕で遮られた。室内にも関わらず、雨がまとまって降ってくる場所があるようだ。
立ち止まって天井を仰いだ男の眉がひそめられる。
「これは……」
男の視線の先には、天井に空いた大穴があった。スポットライトの代わりのように、雨が円形になって落ちてきている。
その真下にある木の舞台も、何か重いものが落ちてきたように壊れていて、長いこと雨が当たったためか、苔が生えてひどく朽ちている。


不意に、男の背中に強い光が投げかけられた。
「そこは、先の戦争で大砲の弾が飛び込んできた場所さ」
かすれた老人の声が聞こえて、男は慌てて振り返る。懐中電灯の光に、年老いた、それでいて瞳の光だけは若々しくぎらつかせた男性が照らされた。
「そうだったんですね」
男が答えると、老人は慣れたように残骸を避けて建物の奥に入ってきて、薄汚れているがどうにか座れる椅子に腰掛けた。
「子供の頃は、ここで色々な芝居を見たよ。有名な劇団もここへ来て、華やかな舞台をやった」老人は目を閉じる。
「色々な劇を観た。『ぬばたま落ちよ』、『月光のライム・ライト』……」老人は、瞼の裏で昔見た芝居を再上演しているかのように、薄っすらと微笑んだ。
「一番よかったのは『レモン症候群』という劇だ。家族が廃墟で暮らす話でね、それはもう大人気だった」
「演劇がお好きなんですね」男は静かに老人に追従した。
「人生そのものだ! だから私はここで、レモン症候群を再演するべく活動している」再び目を開いた老人の目は、狂気的に血走っていた。
「劇場は随分古いようですが」チラリと、男は舞台に空いた大穴に視線を向ける。
「補修をすれば綺麗になるし、これはこれで演出に活かせるさ」老人は自信たっぷりに、乾いた唇を歪ませて笑った。
「だから君も、ここで寝泊まりするのはいいが、舞台を汚さないようにしてくれよ」
老人は演出プランを思い描くように、しばらく劇場内を見て回り、ふらりと帰っていった。


男はその晩、穴の空いた舞台のたもとに寝袋を敷いて眠った。床は冷たく、じめじめと湿気が染み込んでいる。
あめふらしは男の顔の横に寝そべり、気持ちよさそうに湿気を吸っていた。
翌朝、男は雨音に混じった別の音で目を覚ました。
雨より重いものが落ちてきて、何度か弾んで転がるような音がする。
男が重い目を擦りながら辺りを見回すと、廃材が散らかった舞台の上に、何か黄色のものが見えた。
よく目を凝らしてみると、それはレモンだった。雨に濡れて瑞々しく光っている。
「なんでこんなところに……」あめふらしが男の肩に這い上がって、舞台に近づくように促した。
「起きたかい、兄さん」
男が雨合羽を羽織って舞台の方へ行くと、頭上から声がした。見上げると、舞台の真上に空いた大穴の上から、昨日の老人が顔を覗かせている。
昨日より随分雨脚は弱まったが、それでも小雨は続いていた。
「危ないですよ」男は少し声を張り上げたが、老人は曲がった腰で器用にバランスを取って屋根の縁にしがみつき、降りるそぶりはない。
「レモン症候群という劇ではね、最後、たくさんのレモンに登場人物が埋め尽くされて、死んでしまうんだ!」
老人は小脇に抱えたカゴからレモンを掴んで、穴に放り込んだ。
「どうだ、この劇場でしかできない、レモンの雨の演出! 観客はきっと驚くぞ!」
老人の張り上げる声は既に理性を失いつつあった。無数に投げ込まれるレモンのうち一つがよく弾んで、男の膝に当たった。
「観客の頭にも落っことすつもり?」あめふらしが抗議する声は、老人には聞こえなかったようだ。
「その演出、ぜひ街の人に話してみてください。ここの修理のための寄付金が集まるかも」
男は雨合羽の前ボタンを留めると、枕元のリュックを担ぎ上げて背負った。
廃墟の壁にかけていた傘を開き、壊れた舞台に上がる。
大穴の真下に立つと、雨と共に落とされたレモンが、傘に当たって落ちた。傘を傾けて老人を見上げ、小さく頭を下げる。
「俺たちはもう、行かなくちゃ」
男の表情は淡白だったが、どこか焦ったような陰りが顔に差していた。

あめふらしの鼻歌を聞きながら、男は廃劇場を後にした。
「随分急いでるね」あめふらしが少し意地悪に聞く。
「そんなことはないよ」男は色のない声で答えた。
建物がまばらな街の外れまで来たところで、男は向かい側からバタバタと走ってくる大人たちとすれ違った。
「劇場の屋根から爺さんが落ちたそうだ」
「あの人、しょっちゅうあそこで徘徊してたからな」
「あんな古い建物で一体なにをしてたんだか」
「辺りはレモンがたくさんあって、そこに埋もれるみたいに死んでたらしい」
彼らの口調は残念そうでもあり、気がかりなことが一つ減った安堵も滲んでいた。
「事故まで起きたんじゃ、さすがに市長も取り壊しの金を出してくれるだろう」
「ああ。やっとあの景観を汚す廃墟がなくなる!」
大人たちは、男がやって来た方角へ向かっていく。
男は一度だけ立ち止まり、彼らの後ろ姿を眺めたあと、再び歩き出した。


「きっと、お爺さんは濡れた屋根から足を滑らせたんだね」あめふらしが淡々と男に話しかけた。
「そうだろうね」
「雨が降っていなければよかったと思ってる?」
男は、肩に乗ったあめふらしをつまみ上げる。顔のないあめふらしが、男の顔の前で、笑うようにゆらりと触角をうごめかせた。
「雨は僕たちの頭上にやってくる。それはしょうがないことなんだ」あめふらしの声は無邪気な少女のものだ。
男は何も答えず、あめふらしを肩の上に戻す。
「わかっているさ」
雨雲の下、男とあめふらしは歩いていく。真っ青な傘が、雨の向こうに見えなくなった。


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