✠相殺性理論 ある兄弟の話 (執筆中)
🎼Theme Song: THE MUSMUS "相殺性理論"
三十代の兄は定職につかず、その日の稼ぎで気ままに生きていた。趣味はパチンコとドライブ。髪はだらしなく伸び、腕には刺青。どこから見ても真っ当ではない人間だが、不思議と人がよく、憎めない性格だった。
二十代の弟は若手の営業マン。とても人懐こい性格で、集団に溶け込むのが上手く、チームスポーツではいつも重要な役割を任された。頭もよく、文武両道で有名な大学においては常に上位の存在であり、難しい数式もゲーム感覚でさらさらと解いてしまう。その上容姿も端麗で、男も女もこぞって彼の友人に名乗りを上げた。
兄弟が幼い頃。歳の離れた兄は、いつも弟のヒーローだった。今の兄は、弟の陰にすっぽり隠れた存在だった。
弟は、父代わりだった叔父が車で事故を起こして以来、車の運転を嫌っていた。免許を取っても車を持つ気にはなれず、帰りが遅くなった時は、近くに住む兄の運転を頼りにしていた。兄は十年前にバイト代で買った中古車を今も大事に持っており、これは自分の為だけに使う、という強いこだわりがあった。そして弟から連絡があれば、わざわざ知り合いの店のレンタカーを借りて迎えに行くのだ。元々ドライブが好きで、散歩程度とでも思っているのか、特に苦にする様子もなかった。弟はそんな兄を、実の父親よりも好いていた。
まめな性格の弟は交友関係も広く、仕事先でもすぐに友達ができ、しょっちゅう近隣の県まで外出した。交際費が馬鹿にならないと嘆いているが、満更でもなさそうだ。今日は同級生の結婚式に呼ばれ、二次会まで楽しんで遅くなったという。
結婚…それは兄弟の間でタブーと化した話題だった。兄は十代の頃から母の浮気性にへき易しており、自らも女を信用せず、恋人ができても関係が長続きすることはなかった。母の浮気が酷く、兄弟で叔父の家に寝泊まりしていた頃、兄は遠い目をして、口癖のように言っていた。
「俺は女の呪いにだけはかかりたくないよ。他にどんな恐ろしい呪いがあるにしても」
弟がほろ酔いで会場から電話した時、兄は例によって自宅で酒を飲んでいた。少しくらいいいだろうと特に気にもせず、いつものように行き先を確認してレンタカー屋に向かい、素知らぬ顔でハンドルを握っていた。
真夜中の高速道路で、それは起きた。友人の結婚式というおめでたい空気に触れ、酒も入っていつもより陽気だった弟は、ついに禁断の話題に触れてしまったのだ。
「アニキ、最近彼女いるの?」
「さあね…」
「花嫁さん超キレイだったよ。ケンタも幸せそうだったなー」
「ああ、そう」
「アニキも結婚したらさ、絶対今より幸せになれるって」
「ハイハイ分かったよ」
あまりに耐え難い話が続くので、ハンドルを持つ手元が何度も狂う。ただでさえ酔っていて視界が上手く定まっていないのだ。もうこれ以上聞きたくない、と手元のカーラジオに手を伸ばした時、座席に置いてあった携帯電話がガタン、と音を立てて下まで落ちた。
二人がその音に気を取られた時、車は対向車線に大きくはみ出し、丁度カーブを曲がってきたコンビニのトラックに激突した。
その瞬間、声も出せなかった。両者の力関係は明らかで、兄弟を乗せた車は空中でくるくると回転しながらガードレールの向こう側まで吹き飛び、崖下の森の中に勢いよく突っ込んだ。
「ヤバい…これやったわ…」
「なあ、大丈夫…ワアーー!!」
……
辺りがやけに騒がしい。眠りから覚めるように、ぼんやりと意識が覚醒するが、自分がどこにいるのか分からない。常に体が揺れている。地震か?
俺は仰向けに寝ていて、誰かが上から覗き込んでいる。大丈夫ですか、しっかりして、と声をかけられるが、皆知らない顔だ。俺はどこへ連れて行かれるんだ?
見上げるアーチ型の天井は真っ白で、外ではサイレンが鳴ってる。無理やり首を動かして視線を横に向けると、隣のストレッチャーに布がかけてあった。それは人の形に膨らみ、俺の手前に向かって足が少しはみ出している。いい靴を履いてるな…。もう一人そこで寝てるのか?あいつは起こしてやらなくてもいいのか?そんなことを考えていたら、俺も眠くなってきた。
*
俺は今病院にいるらしい。見舞いに来た母に必死で呼びかけられるが、どう反応していいか分からない。もう顔が分からないくらい泣いている。いや、本当に顔が分からない。誰だこのおばさんは。というか、俺は誰だ?うわあ、頭が痛い、ワニに噛まれたみたいに痛くて、無理に動かそうとすると涙が出てくる…こんなひどい体は初めてだ。
「お兄ちゃん」が俺の呼び名らしいが…本当にそうなのか?
おばさんが言うには、俺には弟が一人いるらしい。もうそんな歳でもないのに、兄さんらしい振る舞いをして、よく弟の面倒をみてやっていた、よき兄だったという。何のことだろう。俺はいったい、誰の話を聞かされてるんだ?頭がますます混乱して、また頭痛が再発する。俺の母らしきおばさんは、俺が痛みで泣いているのを見て、悲しんでいると勘違いしたらしい。
「お兄ちゃんだけでも無事でよかった」って繰り返し言う。ということは…弟は死んだのか?
少し遅れて親父らしき男が来て、引きつった真っ青な顔で、「お前がマサキを殺したようなもんだ」とだけ言った。俺と一度も目を合わせることはなかった。マサキ、という名は何となく知っている気もするが、このおっさんはどうも好きになれなかった。あれが本当に俺の親父なら、俺もきっと終わってる。
痛みに任せてぼけーっとしてると、医者が入ってきて、俺の様態を教えてくれた。幸い、体の傷はそこまで深刻ではないらしい。頭を強く打ってはいるが、頭蓋骨が頑丈だったおかげか、脳にまで異常はないという。ただ、帰宅途中に弟と交通事故に遭った、という話がどうにもピンとこない。確かに夜、車に乗っていたような記憶はある。ただ、運転手が他にいたような気がして仕方ない。二人でタクシーにでも乗ってたのかもしれない。
次の日には叔父って人が見舞いに来て、ベッドに寝ている俺を見るなり、女みたいな顔で泣いた。よっぽど惨めな姿をしてたんだろうか。叔父は俺の手を握って、「こんなことになって悔しい」と涙ながらに繰り返した。親父に少し顔が似てるが、この人の顔は何だか綺麗で、その手はとても温かかった。
「タケシ、マサキの分までしっかり生きろよ!仕事の相談なら、いつでも乗ってやるから」
タケシって、もしかして俺のことか?初めて名前を呼ばれた。叔父の目に映るタケシらしき男の影は、人形みたいな動きでぎこちなく頷いた。
*
俺はタケシって名前らしい。どういう字を書くのか分からないけど。何となく聞いたことある気がするのは、割とよく聞く名前だからだろう。だからこそ、顔と名前が一致しないってこともある。俺はどんな顔をしてたっけ?普段の髪型は?身長は─あーダメだ!思い出そうとした瞬間脳が崩壊しそうになる。まるで帽子に上着に下着に靴下、おまけにブーツまで全部ごっちゃになった魔のクローゼットに頭を突っ込んでるような気分だ。文字通り頭からパンツを被って踊り出しちまう。勘弁してくれ⋯!
悪夢のようなクローゼットの整理を諦めてしばらく寝ていると、少しずつ自分の意思で体を動かせるようになってきた。頑張れば携帯電話くらいなら手で持てそうだ。その頃には脳内のカオスも和らいできて、少しくらいなら考えごともできるようになった。
携帯の履歴を見ると、同じ相手から何度も着信が入っている。"ブルーホース"─誰のことだ?ニックネームか、それとも店の名前か?だとしたら、仕事先の可能性もある。今はまだ下手に連絡しない方がいいだろう。少なくとも俺にはそんなニックネームの知り合いはいないし、似たような名前の店で働いてた記憶すら無いんだ。
刻々と時間は過ぎていくが、依然として自分が誰だか分からない。何なんだ。この言いようのない違和感は。自分の体が自分じゃないような感覚。まさか記憶喪失ってやつか?しばらく時間が経てば治るもんなんだろうか。それとも一生このまま、自分が誰かも分からないで生きてかなきゃならない、なんてことにならないだろうか?考えれば考えるほど恐ろしくて、不安しかない。
堪らずベッドから無理やりにでも体を起こして、何となく窓を見ると、ガラスにぼんやりと自分の顔が映っていた。頭に包帯を巻いて、げっそりした青白い顔で、まるでホラー映画の気味悪いゾンビみたいだ。ていうか俺、こんな顔だったっけ?何となく見覚えがある気もするが、確信が持てない⋯いや、確信も何も、自分の体にこの顔が付いてるんなら間違いなく俺の顔だろう!もちろんそのはずだ。
なのに…これを"自分だ"と断言するのが怖かった。簡単に認めてしまえない"何か"が、そこに立ちはだかっていた。何かって、何が?まさか、俺を恨んでる弟、マサキの亡霊か?勘弁してくれ⋯。ともかく、俺はその感覚を無視できなかった。それは下手をすれば、信号無視よりも危険な行為じゃないかって思えたんだ。
*
二日後には、弟の葬式があった。俺はなぜかじっとしていられなくて、病院から外出許可を貰って、家族と一緒に出席した。骨は幾つか折れてるけど、脚はそこまで重症じゃなく、松葉杖をつけば何とかなるらしい。松葉杖なんて人生で初めて使った気がするけど、案外普通に歩けるもんだな。
弟には友達が大勢いたらしく、男も女も皆、マサキ、まーくんって名前を呼んで、顔を真っ赤にして泣いてる。こんなに好かれてる奴が死ぬなんて、酷い世の中だな。
中には泣きながら俺にお悔やみを言いに来た同級生もいて、ぎこちなく頷きながら話を聞いたりした。皆、どことなく親しみのある顔だ。声も懐かしいし、昔会ったことがあるのかもしれないな。
弟は、友達にもよく俺の話をしてたらしい。何でも、顔が自分より男前で悔しい、だとか、俺の人の良さを嬉しそうに自慢してたって。それだけ好きな兄貴とも、こうして呆気なく別れちまうもんなんだな…
顔か…そういえば、弟はどんな顔をしてたんだっけ…気が進まないながらも、恐る恐る杖をついて近付くと、棺には硬く蓋がされ、中は見れなくなっていた。でも、その傍に飾られた遺影を見た途端、涙が溢れて止まらなくなった。
歯を見せた満面の笑顔。2秒と見ていられない。「その顔」を認識した瞬間、言葉にならない感情で頭の中が揺さぶられて、すごく動揺していた。まるでもう一度交通事故に遭ったみたいだ。いや、ひょっとしたらこれが、事故の瞬間の記憶なのかもしれない。
目も開けていられないほどに、ぐるぐると回る世界。乱暴に放り出され、プチンと何かが切れる音…なのに、何で俺は生きてる?俺は一体誰なんだ?
「お兄ちゃん!しっかりして」
俺が急に泣きだしたのを見て、心配した母親が席まで連れ戻してくれる。今は痛いから泣いてるんじゃない、勝手に涙が出てくるんだ。自分でも、どうすることもできないほどに。
(続く)
今日も読んでくれてありがとう。読んでくれる君がいる限り、これからも書き続けようと思ってます。最後に、あなたの優しさの雫🌈がテラちゃんの生きる力になります🔥💪