愛についての覚書

愛。
五十音の始めのたった2文字から構成される、
身近、かつ、意外と理解から遠い概念である。

「愛してる」よく見聞き発する言葉。
その言葉、「愛する」という行為の真の意味を
まるで理解していなかったと思った2023年だった。未熟の一言に尽きる。恥ずかしい。正直これまでの人生どう生きてきたのか覚えてない。

前提として、人間は家族であっても恋人であっても、結局は赤の他人であり、その思想・言動全てを受け入れ理解することは不可能なのである。マジで。自他境界を溶かして日々触れ合っていると、そのことを忘れてしまいがちになる。
思うに、愛し合っている状態とは、相手の価値観を受容し、理解して自分自身が合わせていくこと、変わっていくことなのだと思う。お互いに。
価値観のすれ違いでいつかは破綻していく未来よりも、お互いが少しずつズレを修正しながら、手を取り合って未来を紡ぐことが愛なのだ。
愛と恋はニアリーイコールで結ばれがちだが、実際は感謝とか思いやりとかに近い概念だと思う。
それなのに、愛人という言葉は一般に「妻以外の肉体関係を持つ女性」として知られているのは一体どういうことか。言葉は大衆に使われたら使われた分だけ軽くなっていくので、(古文でそんな単語あったよね、なんだっけ?)日常会話や見かける「愛」という言葉にはほとんど、毛ほどの愛も含まれていないんじゃなかろうか。そんなことなかったらごめん。でも多分私たちみたいな、歪な魂の形をした人間は「愛してる」と言う割に、多分愛せてない。ドーパミンとオキシトシンの区別なんてついてない。
 
まあ、こんなことすらわかっていなかったので2022年9月に元彼に振られたのはまあしょうがないなと思いつつ、「できることなら幸せになって、俺を見返してください」と言われたのはいまだにムカつく。なんだそのカスみたいな文章。死ね。見返すっつーか殺しに行くから待っててほしい!

というわけで、2024年は人を愛する1年にしたいと思っている。恋人に限らず、お世話になった友人や勤務先の人々、家族は、まあ、家庭環境は色々あるからさ。うん。できるとこからやります。愛し愛されたいよ。愛してもらった分の感謝は何かしらの形で絶対お返ししていきたい。正直これが人の世の全てと言っても過言じゃないと思う。
イエスが「汝、隣人を愛せよ」と隣人愛を広めたのは、世界を平和にするための政治活動であったのではないかという話を恋人から聞いた。イエスは2000年以上も前から「愛し愛されることで世界は平和になる」ということを分かっていて活動していたのだろうか。そうだとしたら、私が愛の偉大さに気づくのが遅すぎたよ。悔しい。でも、気づいてない人がいるからこの世から傷つく人間が消えないのだと思う。

だから貴方も、人を愛し、愛してくれる人にたくさん愛されていてくださいね。


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