第三夜【この旅の結末はどこか】scene2

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 京都に着いて一時間ほど経った頃か。
 二〇六系のバスを降りたセンジは、右手に高速道路、左手に瓦屋根の伝統家屋のたたずむ、未来と過去の逢瀬を歩いていた。乙組の担任・歴史の下園は、数人の女子生徒に囲まれながら先頭を歩いている。三十人あまりの隊列の隅々まで意識を配っているはずもない。しかし先ほど宿に着いた際に一度、出発する時に一度と、かなりの頻度で点呼を取る几帳面ぶり。目的地についたらまたやるに違いない。
 ここは従順にいこう。センジはしばらく道路沿いの道を、友達と話しながら歩いていた。
 オーバストン系列のロックドラッグスも環境に適用し、トレードマークの灰色と緑の縞模様は、煉瓦風のひさしの下で存在感を抑えている。
 道が次第に緩やかな登り傾斜に変わり、道幅も狭くなった頃、会話がひと段落し、友人が別の友人の隣に付いた。
 その時、すでにセンジの真横に、赤色の髪の少女が並行していた。
「そっれにしても、本当に変わったねえ」
 後頭部に手をやって顎を引き、胸を突き出し、まるでこの場所が自分の庭であるかのように、闊歩している。
「地面は黒い漆喰に覆われてるし、空気汚染がひでえ。ひょいと歩けば昔風情を象ったニセモノの店ばっか。それに、外来のニンゲンがウヨウヨしてやがる」
 ポニーテールを解き、鮮烈な赤い巻き毛を左右へふらふらと揺らす火継は、彼女が口にする『外来のニンゲン』まさしくそのものである。
「床無さん。なんでここに」
 床無火継はセンジの歩幅に合わせて、かなり大股になっていた。
「ソラたちと一緒に、金閣寺に行ったんじゃ」
 確か、二〇六系のバスには乗っていなかった。徒歩だと五十分はかかる距離だ。
「飛んで来たのさ。幸い、足は速い」
 センジが如何とも言い難い複雑な顔をしていると、火継が言った。
「本当のところ、アタシ、燃やしちまったことあるからさ。出禁なんだ」
 金閣寺を出禁……? センジは首を傾げながら、状況を整理してみた。確かに戦後、千九百いく年かに、金閣寺が放火された事件が起こっていた。
「三島由紀夫みたいだ」
 火継はポカンとした顔をした後、続けた。
「アタシが十八になったばかりの頃さ。クソ親父と一緒に、この街を巡ったことがある。初恋の女と別れた場所なんだとよ。知るかってんだキモチワリィ」
 火継はそう吐き捨てると、少し黙り込んだ。
「今思えば、あれはアタシを雪山に捨てる前の、餞別だったのかもしれないねえ」
 七十年前、北海道のウルシップ山に捨てられた女。十三歳の見た目をした八十四歳。センジには、この女の考えがまるで読めなかった。
「どうだろう。俺にはわからない」
 センジが小さくそう言うと、火継は弾けるように笑った。
「そりゃそうだ」
 足元がコンクリート舗装から、石の道へと変わる。紅白提灯を軒先に下げた店が、巨大な『箸』という文字の書かれた看板を立てかけている。
「このまま歩いちまっていいのか。合流できなくなるよ」
「でも、ここから消えるのは流石にまずい」
「チキンだなあ。まあ、だからアタシが来てやったんだけどね」
 タンクを積んだ中型のトラックが走ってきて、横道に追いやられるセンジの顔に、生八橋のノボリが絡みついた。
「どういう意味だ?」
 センジが訊いた。
「アンタの話、京子から聞いたぜ。仲間になるんなら、予備知識として知っとかねえとな」火継は純粋とは言い難い含みのある笑みを浮かべる。「アンタ、京子とコネクターを出逢わせた張本人なんだってな」
 センジは首を縦に振った。すると火継は大きな黒目をぎょろりと向ける。
「なんでそんなことを?」
 火継の質問を、センジはしばし嚥下【えんげ】できなかった。なぜか? 答える術は様々ある。あえて深追いせず、最も簡単に思い浮かぶ答えを述べる。
「京子に頼まれたからだ。会わせてくれって」
「そうかい」
 火継は下品な笑いを浮かべた。世俗に触れず、老いも知らず、全てが止まった凍土で暮らしていても、老婆心じみた心は育つようだ。
「なんで京子は、そんなこと、頼んだんだろうねえ」
 なぜ。そんなのは決まっている。美空光について、浅間機関について、宇宙の片隅で起こった出来事について、知るために。ソラが話さなければ、センジが話すことはできない。それは道理に適わない。だからソラに会わせる必要があった。
「理由なんて……どうでもいいだろ」
「だいぶ考えて、それかい」
 火継は愉快そうに言った。このまま質問され続けるのは好ましくない。センジは攻勢に転ずるべく、手を打った。
「床無さんはなんで、すんなりと修学旅行なんて来たんだ?」
「ダチだからね」
 少し照れたように言う。
「思ってもないだろ」
 センジは皮肉っぽく言う。
「誤解だね。アタシはダチ想いさ。ただ複数人とそういう関係になったことが、ねえってだけさ。アタシには坂田一人しかいなかった」
 リスク192、坂田金時の成れの果て――。ポロシャツの男が話していた言葉が、センジの頭を過ぎる。
「その、そいつは処理……、されたのか?」
 センジが区切り区切りに訊いた。火継は無表情のまま沈黙を保つ。
「俺の知り合いにも一人、リスクになっちまった人間がいてさ」
 センジが続けると、火継こそ相槌を打たなかったが、止めもしなかった。
「彼が処理されるところを、実際に見たんだ」
 センジの脳裏に、特別棟四階での出来事が浮かぶ。
 ナノマシンは、変わりたいという人間の意思を、助けたに過ぎない。思えば地球にはすでに、人の手によって形を変えた生命がいくらでもあった。今朝食べたポテトがそれかもしれない。人が人の形を保っているのは、ほんの偶然に過ぎないのだ。
 センジの結ばれた口を見上げて、火継が眉を寄せて、静かに手を合わせる。続いて、それはつらかったね。と囁くように言った。
「……ごめん俺、変なこと訊いた」
 火継は首を横に振った。
 石の通路が終わりを告げ、目の前には、左右に狛犬と力士像を携えた巨大な朱色の鳥居が現す。その圧倒的存在感に観光客は、写真を撮らずにはいられない。
 これが文化財の仁王門ですが、元来仁王門というのは寺院全般に認められる左右に像などをあしらった門の作りであり……、と歴史の下園は、水を得た魚のように早口で話している。
「坂田は、アタシよりずっと年上のパイロットだった」
 火継は静かに話し始めた。センジはその気が変わらないように、積極的に興味を示した。
「その、パイロットってのは」
「ナノマシンは肉体と心を、神経を介さず直に繋ぐ。原理的には、筋繊維一本一本に脳から直接指示を出してる。アタシたちは自分の体を操縦してるのさ。だからパイロット」
 石の階段が続く。体は着実に、地表から遠ざかっていく。朱く塗られた西門と三重塔が左手に見えた。センジが頷くと、火継は続けた。
「でもあいつは、思えば、自分の体を操縦できてなかった。あいつは体の操縦を奪われちまったのさ」
「奪われたって、誰に」
 すると火継はセンジのうなじに触れ、そこからほんのり暖かい指先ですうっと背筋の出っ張りをまっすぐなぞった。
「自立神経。呼吸したり、心臓を動かしたり。人間というシステムを起動する部分。本能とも呼ぶ。思考よりもずっと深い場所に、さ」
 ごくりと、センジは生唾を飲んだ。
「坂田は背丈が十一尺ぐれえあって、首から上がなかった。でも斬られたんじゃねえ。埋まってたんだ。膨れ上がった筋肉にな。出会った時からそうだった。あいつはナノマシンと混ざり合った自律神経に、肉体を乗っ取られたんだ」
「俺の想像が正しいかどうかも……わからない」
 センジが不甲斐なさそうに言うと、火継はまたしても弾むように笑って、アンタ律儀だねえ! と声を上げた。
「あいつの体は、無差別にヒトを襲った。けど、アタシだけは襲わなかった。なぜだかね。それでアタシはあいつと一緒にいることにしたってわけだ」
 朝倉堂で少し待たされ、団体入場券を受け取った。手続きを済ませている間、センジは絶句したまま体だけを動かした。
 京平が死んだ時、あんなことはもう二度と起こらないと思った。最初で最後の悪夢だと。しかし火継と黒服の争いは現実に起こった。あまつさえ彼女の口からは、さらに多くの『ヘテロ』に関する話題が飛び出した。
 首ナシの大男? 肉体が暴走したビックフッド? それが妹ぐらいの歳の少女の口から語られている。これが悪い冗談であって、他に何だというのだ。
 けれど、もっとおかしいことがある。それを確かめねば――。
「んっ、どうしたよ」
 ぎし。かび臭い木の床が鳴った。本堂の内部はやけにひんやりしており、独特の静けさと、観光客の騒ぐ音とがぶつかり合っている。
「エッケハルト・メトーダ」
 火継の足がぴたりと止まる。
 京平は、特別棟の手術室で治療を受けていた。エッケハルト療法【メトーダ】。何度目かのお見舞いの時、病室のテーブルでその文字が目に入った。施術名が書かれた書類のそばには茶封筒が破り置かれていて、そこには石上製薬の捺印があった。
「アンタ、なんでそれを」
「やっぱり……」
 全身が脱力して、いいようもない無力感に襲われて、センジは昏倒しそうになった。 
 石上製薬は、オーバストンの始祖産業だ。日の当たらない人にこそ医療を、をモットーに、他に類のない配慮の行き届いた医療器具を手掛けてきた。センジの兄も、そのいっそうの躍進のために医学部に進んだ。
 しかしセンジにはどうしても疑問が残った。医薬品、医療器具という、収益性の少ない事業で、どうして石上製薬は、日本を代表する巨大コングロマリッドにまで発展を遂げたのか。
 父親のオフィスに幾度も出入りしているセンジにさえ、その謎は解けなかった。
「やめとけ。あんまり深入りしねえ方がいい」
「そういうのは、いいんだよ」
 センジが震える声で言った。
「なんで知ってんだよ……。床無さんさえ知らないって言ってくれれば、それだけでよかったのに。俺がそっちの世界と交わることなんて、ないんだから」
 火継が小首をかしげる。出生から全部狂っている人間には、普通の生き方と、そうでない世界との間でぐらつく人間の恐怖など、わかるはずもない。センジは思った。
 その恐れを知らない横顔が腹立たしい。
「ずっと考えてきた。旧財閥でさえなかった石上家が、なんでこんなに発展したかって。親父に訊いても、兄さんに訊いても、何も教えちゃくれなかった。ずっと蚊帳の外だ。兄が継ぐから背負わなくていい。勉強もしなくていい。ただ目立っていて、広告塔になっていさえすればいい。親父と、その賢い側近たちは、俺に怖いくらいの自由を与える。なぜだと思う」
「さあね」
「俺に何の危険もないと思ってるからだよ」
 センジの抑えた声が境内に染み入る。
「地に足がついてないんだ。俺だけがな。ソラも、京子も、あなたでさえ、自分が何者かを知ってる。でももし、俺の家が、ナノマシンを用いた軍事産業に関与しているとしたら……俺はもう、あいつらを、何一つ信じられない」
「なるほどねえ」
 火継は首の後ろで腕を組んだまま、本尊の千手観音をまんじりと見つめている。
「時間がないんだ」太い柱にもたれかかったセンジが言った。「もう。兄が大学院に進んだら、後継者が正式に決まってしまう。だから……」
「ああ、確かに時間がねえ。もう一時十分だ」
 センジは閉口して、本尊を眺めた。無数のファンと握手する近代アイドルって、この菩薩様みたいな存在なんじゃないか。などと意味のわからないことを考えていたら、驚きが後からついてきた。
「なんだって!」
「話し過ぎたみてえだな。わりいわりい」
 センジは慌ててポケットに手を突っ込んだ。普段からの癖で、スマホの電源を切っていた。側面のボタンを押し込むだけの動作が、ひどく億劫に感じた。やっとのことで画面に白いロゴが現れ、ホーム画面に飛ぶ。
『私たちは二条駅から乗る。火継さんを連れてきて。遅れるな』
 京子からだ。文章の最後には、こちらを指差して念を押すようなニュアンスのスタンプが押されている。同様のメッセージが他に、三件も入っていた。
「ああ。そうだ。どこって? 崖っぷちの寺。ん? 心配すんな。直線距離は知れたもんだ。間に合わねえわけがねえ」
 火継はガラケーを畳んで、オーバーオールのポケットに戻す。
「ど、どうする。あと二十分しかない」
「どうするも、こうするも」
 邪悪な笑みを浮かべながら振り返った火継は、崖にせり出した舞台の先を見やる。深緑に抱かれたセルリアンブルーの空。はるか下方で、滝から引いた水を熱心にひしゃくで受ける観光客が見える。
「だからアタシがここに居るんだろ」
 悪い予感が駆け上がる。最悪、あるいは最高のタイミングで、住職が本尊についての説明をはじめ、視線が後方に集まった。教師の目もない。
 火継の手が伸び、センジの襟首をガッチリと掴む。
「大丈夫。親父もやったらしいが、ピンピンしてたってよ」
 火継はやや誇らしそうに言った。
「いや、あなたの父親はちがっ――」
 そりゃ、不死者の親子の話をされても。
 百七十八センチ六十五キロの体は、一瞬のうちに宙に舞い上げられた。瞬く間に恐るべき慣性が働いて、センジは火継の肩に担がれたまま、清水の舞台から飛んだ。


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