第二夜【鬼の子】scene11

☆☆☆★☆☆☆☆☆☆☆

 京子は思い詰めた表情で、壁沿いに置かれた三人がけぐらいのベンチに腰掛けていた。下着の上に脇の開いた検査着だけを着るのでは、流石に一緒にいるのが友達でも心許ないだろう、ということでブランケットを借りていた。カラカラに脱水され、ブランケットというよりはバスタオルみたいな肌触りだ。
 エキジットマークがぼんやりと照らす棟内は、隣に座るセンジ以外に人気は皆無だった。目の前の放射線検査室三番は、天井についた黄色いランプを明滅させ、ごうんごうん、という腹に響く重低音を断続的に鳴り響かせている。
 京子の手は祈るように両足の間に置かれ、その視線は検査室の移ろうランプと、ライトの切られた天井と、特殊診療科へ続く果てしない闇の通路とを忙しなく行き来していた。京子の検査が終わってからやや距離を取って座っていたセンジが横へ来て、京子の丸まった背中に手をやった。
「大丈夫さ」
 センジは兄のような態度で、京子の背中をさすってやる。
「うん」
 京子はそう言いつつも、自分ではよくわからなかった。この後どうなるのか。まるでイメージができない。
 ずっと、人生の退屈さを憎んできた。自分のどうしようもないほどの普通さを、疎んできた。だから校舎の屋上でマーベル・ヒーローばりの戦いを見届け、それによって被曝していると医者から告げられることだって、彼女が望んだもののはずだった。
 検査で何も問題がないことが二十分前にわかったばかりの京子は、まだ全く慣れずにいた。彼女が渇望した『当事者』になるということの意味を。
「そんなにすごいことじゃない。この程度の被曝量なら、放射線技師の方がよっぽど体を崩してるって」
 センジは慎重に言葉を選びながら、宥めるように言った。
「それに、今回も丸くおさまった」
「ソラ君が、犠牲になって?」
 犠牲、という言葉が強すぎたのだと、京子は後から気付いた。しかしセンジはランプを見上げたまま、静かに笑った。
「あいつ、そういうのが好きなんだよ。やらしとけばいいのさ」
 どこか羨むような、それでいて距離を取るような、そんな言い方だった。
「ヒカリの時だって」
 そこでセンジは口をつぐんだ。京子は察してか、それとも本当に聞こえなかったのか、意識が及んでいないという様子を貫く。
 千次の自家用ヘリでここまできた三人は、医院長の勧めから精密検査を受けることになった。保険適用外の検査となるため、診療時間外まで待ってから特別棟へ移動した。宛てがわれたのは、石上家にゆかりのある医師だった。
「なんか二人でこうやっていると、懐かしいね」
 京子が言った。
 センジは、京子と出会った日のことを思い出した。五歳か、六歳頃だったか。小児科の五〇五号室と、五〇六号室のお隣さん。センジにできた『親のツキアイ』以外の、初めての友人。それが京子だった。
「そうだな」
「だいぶ背、伸びたわね」
 あの頃は一緒ぐらいだったのに、と京子は少し寂しそうに付け加える。
「京子さんも麗しいレディになられましたね」
 センジがおかしな語り口で言った。京子は、はいはい、ありがとう、と返す。
 病棟内はやけに寒かった。
 三人掛けの椅子に二人、真ん中に一人分空けて座っていた。その開いている部分に、二人ともの手が、無意識のうちに投げ出される。京子の手の上に、センジの手が乗った。誰も、何も言わなかった。偶然にも重なり合った手は、それ以上深く絡みつくことなく、ただ重なり合ったまましばらく体温を分かち合った。
「私、目標、変える」
 手を引き抜いた京子は立ち上がって、腕をぐっと曲げてそう宣言した。
 センジはそうか、と言って京子を見上げる。
「前言ったやつは撤回する。もっと高いところ目指すわ」
 ごうん、ごうん、という音が次第に小さくなり、炎が消えるようにふっと止んだ。
 天井についた黄色いランプの明滅が止まると、十センチぐらいの厚みのある扉が重たく開いて、中から検査着姿のソラが姿を現した。左手にはギプスがはめられ、前腕は肘まで包帯をぐるぐる巻きにしている。
 ソラは部屋から二、三歩出て振り返ると、巨大な何かの検査装置が置かれた部屋の向こうから、もう一つの観測部屋の扉を開けて出てくる女医の姿を見た。
 石上のかかりつけ医の藤原頼良【らいら】先生は、胸囲よりもお腹の方が大きかったが、その巨体に見合わず俊敏な動きで、検査結果らしい書類を持って歩いてくる。
「あなたたち、来て」
 頼良先生は言葉を待つ京子の前では止まらず、そのまま暗闇の中を突っ切って、特殊診療科の方へ歩みを止めない。
「夜間節電中よ。でも、時間外診療、しかもかなりグレーなやつだから、これぐらい勘弁して」
 ソラたちはキョトンとして顔を見合うと、先生の後を無言でついていく。
 この特別棟は第一赤章病院の老朽化した旧東棟を改装して作られた。実験医療と治験を目的としたオーバストンが区分所有する施設だった。かつて御門京平が入院したことがあり、石上製薬の手掛ける実験医療が施された場所だった。彼がリスクになった時には封鎖され、運営を再開したのは二ヶ月ほど前に過ぎない。
 京子は通路を歩く中、ソラのことを心配そうに幾度も見た。ソラは、なるようになるさ、といった顔で黙々と歩く。
 診察室に入ると、頼良先生はペンライトで部屋を照らし、診察室とその後ろに控える通路の電気を入れた。パソコンを起動するそぶりはなかった。
 ソラとセンジをベッドに、京子を椅子に座らせ、検査結果らしき紙をデスクに置くと、自身は椅子二つを並べてその上にどっかりと腰を落として、チェーン付きの眼鏡をかけた。
「結論から言うと、問題ないわ」
 その言葉に最も安堵し、胸を撫で下ろしたのは軽症であるはずの京子だった。彼女はセンジが訴えるような喉のひりつきさえ感じていなかった。
 逆に一番冷めた反応をしたのは、ソラだった。二、三度頷くだけで、喜びぶことも、不安がることもしない。
 頼良先生はそんなソラをほんのわずかに見ると、すぐにデスク上のデータに目を落とす。
「三人とも被曝はしてるけど、安全圏。そこのサカキさんだけ、要経過観察ね。他の二人よりガンマ線の数値が十五倍高いから」
 京子が、じゅうごばい、と言っておどろおどろしく復唱する。
「怖いのは内部被曝だけど……今のところは問題ないわ。吐き気、倦怠感、その他異常が出たら連絡して。でもどうしたの。校庭に使用済み核燃料でも埋まってた?」
「それは、話せば長くなる、といいますか」
 センジが先だって言うと、頼良先生は視線を移さずページをめくり、
「じゃあ話さなくていいわ。ほんとに夜中に呼び出される身にもなって頂戴」
 と言い放った。それから再度ソラを睨んで、
「サカキさんは、腕のやつは家帰ったら外していいけど、これだけはマジで守って。一日二回、朝と夜に包帯を替えて、清潔にして、塗り薬を塗る。わかった? 清潔にするのよ。お尻触った手で塗っちゃだめよ。左前腕、及び左手の甲をⅠ度熱傷。掌全体をⅡ度、ただし一部がⅢ度熱傷。わかる? やらないと腕が腐るってこと」
 捲し立てるように言うと、まあ手順は書いといたから、と言って文字と図がビッシリ詰まったメモ用紙をソラに手渡した。
「院外薬局は閉まってるから、これ。今渡せる分は少ないから、明日処方箋持っていって」
 センジと京子には小さな袋が、ソラにはノートぐらいの大きさの袋が渡される。
「あ、ありがとうございます」
 ソラが頭を下げると、追従して二人も同じように感謝を述べた。
「あの、料金は」
 京子が訊いた。すると頼良先生は、キッと鋭い視線でセンジを睨む。
「先生は、石上家と顧問契約してるんだ」
 医師と顧問契約を結ぶ。『かかりつけ医』とはそういうことだったのか。
「じゃあ、私、戻ってデートがあるから」
 頼良先生はアルトの声で、堂々と言い放った。
「あの」
 他の二人が部屋を今にも出ていこうとする時に、センジが声をかける。機材をパソコン横のコピー機にかけているところだった頼良先生が、ぐるりと振り返る。
「まだなにか」
「床無火継さんってご存知ですか」
 頼良先生の動きが、一瞬止まるのがソラにもはっきりとわかった。
「その人が?」
 先生はとぼけるでもなく、ほのめかすでもなく、徹底した無色の答えを吐いた。
「ここに運ばれていないかと思って」
 あの後火継は、浅間機関のヘリに乗って回収されていった。狐顔の男は、コネクターたるソラと一応『法的根拠のある契約』を交わし、火継の人権と尊厳を守ることを約束していったが。
 頼良先生は間の抜けた顔をした後、嘲るように言った。
「あなたねえ。医者が個人情報を漏らすわけないでしょ」
 センジは眉根を寄せて、そうですね、と言った。今の三人にとって、正論で武装した大人ほど出し抜きがたい相手はいない。しかしセンジは諦めず続けた。
「ここって、浅間機関の医療施設も兼ねてるんですよね」
「用が済んだんだからさっさと帰りなさいな」
「六階から上には何があるんですか」
 ソラは思い当たる節があった。確かにここへ来る時に乗ったエレベーターのボタンは十階まであったが、五階までしか点灯しておらず、押すことができなかった。
 それに、この空調の強さ。節電と言っている割に、やけに寒い。
 ソラは天井を見上げた。微かに、ごうん、ごうん、という音が聞こえてくるような気がした。
「パパに訊きなさい」
 ところがその一言で、センジの追及はパタリと止んでしまう。
 二の句が継げなくなると、いよいよソラたちは診察室から追い出され、足下灯だけが照らす薄暗い廊下を、帰路に着いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?