第二夜【鬼の子】scene5


☆☆☆☆☆

 京子が火継と一緒に、授業に遅れて来た。京子の顔は興奮のためか火照っていて、ぶかぶかの体育着を着る火継はどこかすっきりした顔をしている。
 体育教師の左山【さやま】は、君が噂の転校生か、と言って歓迎した。
「何があったの」
 ウォームアップの屈伸に励む列へ混ざり込んだ京子に、ソラが訊ねた。
「女だけの秘密」
 ソラは眉にしわを寄せて、しばらく悩みこんだ。
 照りつける太陽が、夏の面差しを帯びている。
「今日は先週言った通り、ドッジボールだ。今学期の必修内容は終わったから、こっからは適当に、集団でできるスポーツをやっていくぞ」
 準備運動を終えた生徒たちは水に油を落とすように、すでに男子勢と女子勢に別れていた。男子勢から歓声が上がったが、対照的に女子勢のムードは暗い。
 火継はブリッジの状態から腹筋だけを使って跳ね起きて、垂直跳びをしながら手やら首をごりごりと回した。
「おっと、人の前では跳んじゃだめなんだったね」
 火継はそうこぼすと、くるぶしを回して足の筋肉をほぐし始める。
「じゃあ、自分と身体能力が近いなと思う人と、ペアを組んでくれ」
 ソラは自分と運動能力の近い人を探した。佐藤はああ見えてサッカー部だし、渡辺は囲碁部のくせに足が速い。純粋な文化系の人とは交流がない。視線を漂わせていると、知恵と組みかけている京子が目に入った。
 京子はソラの視線に気づき、それとなく知恵から離れると、どうしたの、という面持ちで近づいてくる。
「僕は運動音痴だ」
「知ってるわよ。中学三年のリレーで、チームをビリに追いやった」
「なんでそれを」
 三年以上前の話だ。誰から聞いたのだろう。
 なんでかな、と京子ははぐらかした。
「とにかく、組んでくれると助かる。男女で組んでも問題ないはずだ」
 そう言うと京子が、あからさまに顔を逸らした。男女で組むなんて、きっと恥ずかしいに違いない。しかし、そこをどうか。ソラは食い下がった。
「今度ポテト奢るから」
 そう言ってソラは左手で、京子の右手を取る。ちょっと、という京子の弱い拒絶が聞こえたけれど、構わず上空に掲げた。
「組みました」
 ソラが言うと、全員がジャンケンを始めた。ソラは何となく火継を見た。
 今日は真夏並みに日差しが強い。京子の頬も、りんごのように赤く染まっている。
「ちょっと、手。手」
 京子が何か言った。ソラの鼓膜は受け取っていたが、その情報が脳に届いていなかった。ソラの目は火継に釘付けになっている。いや、正確には火継にではない。
 その足元。
 影がない。
 慌てて天高くへと視線を持ち上げ、カレンダーを頭に思い浮かべる。今日は六月二十三日。ということは昨日が夏至だ。正午近い今、太陽はこの日本で一番高い位置に来ている。案の定、頭上かとも思える位置に太陽が見える。
 視線を戻して、クラスメイトたちを見る。上履き一足分ほどの影がどの人の足元にもくっついている。その長さを覚えたまま、すぐに視線を火継へ。
 やっぱり影がない。
「ソラ君、恥ずかしい」
「それどころじゃない。京子、あれ見て」
 ソラは握り続けていた京子の手をパッと離して、火継の足元を指し示す。
「影がない!」
 京子が叫んだ。ソラが口に人差し指を押し当てて、できるだけ目立たないように京子を宥めた。
 左山がホイッスルを吹く。ほとんどの生徒が二チームに分かれ終えている。
「僕が負けたことにしよう。話は後で」
「オーケー」
 京子が握り拳に親指を立てて見せると、二人は何事もなかったかのように別れ、別々の方向へ歩いていく。
 コートはすでに用意されていた。一つ前のクラスが使ったものだろうか、白線が削られて、かなり薄くなっている。
 左山がラインカーで外枠の白線だけ補強すると、試合、もとい戦争が始まった。
 が、火継に影がないことに気づいたソラは、気が気でなかった。まるで夢現だ。鏡の中の世界にでも入り込んでしまったかのような、混沌に襲われる。
 任意で内野に戻ることのできる初外野を勝ち取ったソラは、しばし戦いから離れて頭を冷やそうとした。
 火継は味方だった。その代わり、相手側には水球泳選手の左山がいる。
 相手側がジャンケンに勝ち、頭より少し小さいぐらいの弾力のあるボールを男子生徒が手に取る。そのまま振りかぶって、投げた。回転しながらまっすぐ飛び、女子生徒の背中にドンと当たる。
 よろめく女子生徒を友達が庇い、上に飛んだボールを男子が掴んだ。彼の行為は女子たちから大いに称賛された。気を良くしたその男子は振りかぶって投げた。
 すると相手側の女子が受ける。女子に取られるヘナチョコ玉か、という煽りが飛んだ。受けたのは女子バスケ部員。女子を舐めるな、という覇気を纏った声とともに、反撃が撃ち込まれる。
 その玉を手にしたのは、火継だった。
 指先でつまむように、ボールを持っている。
「このボールで。あっちの奴らをぶっ飛ばせばいいんだよな」
 男子たちが雄叫びを上げて、やれやれ! と煽った。敵陣は左山を中心に固まっている。
 火継は振りかぶることなく、ボールを押すように飛ばした。ボールがどう飛んだのか、見たものは誰もいなかった。次の瞬間には左山の隣で受けの姿勢をとっていた佐藤の眉間にボールが当たり、佐藤の体は空中で捻れながら二メートルぐらい飛んで地面に落ちた。
 真上に飛んだボールがバウンドしてまた火継の手に戻る。
 京子の視点からだと、火継の恐ろしい笑みがはっきりと見えた。
 火継はボールを見えないほどの速度で飛ばし、左山をダウンさせる。その次に近くにいたバスケ部の男子二人をなぎ倒す。
 京子の言った通りになった。これは戦場だ。
 敵陣から切羽詰まった声が上がる。佐藤が目を覚さないらしい。かついで保健室に連れて行くために、男子四人が向こうチームから消えた。
 降参する人間がいて、さらに人の数は減った。
 やがてはみんな白けて、誰もコートの土を踏まなくなった。


 着替えを済ませて教室に戻ると、佐藤が自分の席に力なく座っていて、男女構わずほとんどクラスの全員が火継を見た。
「なにさ」
 火継が言うと、女子の一人が言った。
「ちょっとやりすぎだと思う」
 火継がけたけたと笑うと、他の女子が前に出る。
「笑い事じゃないよ。佐藤君、脳震盪だってよ。首の骨折れてたかもしれないって」
 佐藤と仲が良いとは言えない女子さえ、この時ばかりは彼の味方だった。
「上等じゃねえか。戦争だろ? 四肢がもげるまでやってやらあ」
「戦争じゃないよ! 火継さん自分が何言ってるかわかってる?」
 佐藤の隣でしゃがみ込んでいた知恵が、怒鳴って立ち上がった。
「戦争さ。なんだって戦争。頼れるものは自分だけ」
「今、そういう時代じゃないんだけど?」
 別の女が言った。
「っていうか、何なのその髪」
 絶対校則違反だし、似合ってない、と女は付け加える。
「昔、派手髪の女が一斉を風靡した時代があったわ」
 別の女はそう言って、ロボットのような動きをしてみせた。ヒカリの真似だろうか。全然似ていないくせに、大きな笑いが生まれる。
 そこからはもう、彼女の行いの糾弾でさえなかった。説得力なんて不要だ。
 火継は集団化する生徒たちを鋭く睨むも、その行為さえ集団にとっては火継の危険性を担保するための証拠となった。
 複数の敵意が混ざり合って悪意になり、日が差して影が生まれるように、利己的な正義が形作られた。今やこの教室で火継に指差す誰もが、剣を持った十字軍だった。
 火継を鬼だと決め付けている。異端だと。脅威だと。鬼に声がないと? けれど鬼は表情も声色も剥奪されて、ただ恐ろしいだけの人形にされてしまう。
「アンタらのために戦ってやったのさ。何が悪い」
 誰も火継の話など耳に入らなかった。。
「アタシはただ、アンタらのために」
「うるせえ、消えろ」
 佐藤が投げやりに言って、上履きを火継めがけて投げ飛ばした。火継は避けなかったが、靴は耳すれすれのところを通り抜ける。それを皮切りに、皆が抱えていた怒りが一本の濁流になって火継を飲み込んだ。
 ごう、と部屋がいっそう暑くなった。火継の髪から熱が溢れ出し、じわじわと教室を温めていく。
「言い過ぎだ」
 傍観を決め込んでいたソラはついに立ち上がり、二者の間に割って入った。火継に向けている背中は、ごく近くにヒーターでも置いているように熱っぽい。
「出たよ、変人係。お前はいつもそうだ。少数派の肩ばかり持ちやがって」
 佐藤は頭を抱えて、ふらふらと立ち上がり、言った。
「イカれた女に寄り添って慈善活動か? その方が手っ取り早くオリジナリティ得られるからな。けどお前は卑怯だ」
 佐藤がソラの心臓あたりを指で突く。
「お前はそばにいるだけ。話を聞くだけ。いつだって見届けるだけだ。一番近いところにいるだけで、中には踏み込もうとしない」
「僕はそれでも、理解したいって……」
 ソラが言い淀む。
「じゃあ聞くがよ、そいつを庇う根拠はなんだ?」
 不整脈が起こった。ソラは胸を押さえ、息を止める。体が、嘘に耐えられなくなっている。なぜ火継を庇うのか。わからない。そうするべきだと思ったのだ。
 口に出せる答えはなかった。
「わからないなら教えてやるよ」
 佐藤は勢い付いて言った。
「お前は美空光の代わりを見つけたいだけだ」
 それは決して、他人に指摘されてはならないことだった。導火線に火がついたように体が自動的に動いて、佐藤の体を押し倒していた。佐藤はとっさに頭を庇った。弱点があるなら、弱点を狙わなくては。ソラは拳を振り上げた。


 次の瞬間には、ピンクのカーテンに覆われた三畳ほどのスペースで、硬いベッドの上にいた。ダンベルみたな丸椅子に、京子とセンジが座っている。
「あ、起きた」
 京子が心配そうに覗き込んでいる。センジもパッドを閉じ、遅れてこっちへ来た。
「保健室よ」
 その時、後頭部にずきずきする痛みを覚えた。血こそ出ていないが、レモン大の熱を持ったコブが指先に触れる。
「どうして……」
「トコナシさんが静止に入ったのよ。その、多少やり方は強引だったけど」
 どうりで、三階から落ちたような痛みがあるはずだ。
「ひどいこと言われたらしいな」
 センジは組んだ足を下ろして、両手を合わせると、
「大丈夫か?」
 と、低く静かに訊いた。
「あ、ああ。全然平気。前にも気を失ったこと、あるから」
 意識がはっきりしてくると、佐藤から言われたことが頭の中で反響し始める。
 ヒカリの代わりを見つけたいだけ。
 ソラは、火継に抱いていた怒りと愛着の正体が、やっと掴めた気がした。
「火継は、ヒカリじゃない……。何でヒカリじゃないんだ、っていう思いが、実際、あったのかもしれない」
 ソラは、ボソリと言葉を吐いた。
「似てるけど、真逆なんだ。孤独で、傲慢で、意地っ張り同士だけど、そのアプローチが真逆。僕はおかしいんだ。どんな時でもヒカリの影が重なってる」
「わ、わかる気がする」
 京子はできてしまった異様な間を埋めるように、勢いよく肯定を放った。
「私だって飼ってた猫が死んで、その子ジェダイっていうんだけど、野良猫がぜんぶジェダイに見えたもの」
 慌ててフォローに続ける。センジはただ深く頷いている。
「でも、さすが『コネクター』ね。火継さんのために立ち上がったの、ソラ君だけだったわ」
 京子が一週間前に仕入れた知識を、さっそく振る舞っている。
「偽善だった」
「偽善でもあそこで立ち上がるのとそうでないのは、イチと、ゼロなのよ」
 誇らしそうだった。京子はソラを一瞥し、照れ臭そうにすぐに視線を逸らす。
「コネクター、か」
 ソラはその単語をあえて口に出してみた。掃除機か何かの部品名のようだ。司郎は、コネクターという役が生涯続くと言っていた。それが星を眺める者の宿命だと。
「僕は、コネクターっていうのはさ」
 そう言いかけた時、カーテンが引っ剥がされた。べしゃり、と水と氷がたっぷり入った氷枕が床に落ちる。
 立っていたのは火継だった。その大きなつり目が、充血していくのがわかる。
「コネクター、だと」
 火継が氷枕をぐにゃりと踏んで、ベッドの方へと歩く。
「灯台下暗しってワケか」
 センジがすぐにカーテンを閉めようとしたが、その腕を火継が掴んで、カーテンから引き剥がした。ぐぐぐ、と万力のような音が聞こえて、センジが悶える。
「やっと見つけたよコネクター三号。ちょっと来てもらうぜ」

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