第三夜【この旅の結末はどこか】scene3

☆☆☆

 火継の肩と首の隙間に腰の出っ張りをひっかけ、左腕でがっちりとベルトを固定されてはいたが、空気抵抗によって二人がバラバラにされないのが不思議でならなかった。上昇する時は背中をくの字に曲げ、上向の空気抵抗を減らすのと同時に、火継からかかる力で胃が押し潰されることを少しでも避けようと努め、逆に下降する時はその小さな体からわずかでも離れないように、火継の脇腹に手を回してヒルのように頭をへばりつかせた。
 上昇する力と重力とが均衡したセンジの体は、地上数十メートルで静止する。横に見えるものは空と雲だけ。もう何度目か、何十度目かになるプロセス。内臓が全部体から飛び出して、空中にばらまかれてしまうかのような無重力を感じるのも束の間、すぐに二人は落下を始める。
 これまでと違ったことは、落下しそうだと思われる地点が建物の屋上や、屋根ではないということだった。ゴマ粒ほどの大きさの人影が、ぐんぐん大きくなっていく。幸いなことに喉は枯れて、もうほとんど声が出なかった。
 火継の足が地面に触れ、センジの腹は急激な圧迫を受けた。胃液が押し出されて唾液と混じり。黄色い点字プレートを濡らす。朝から何も食べていなくてよかった。
 ぐらつく頭を上げると、ドーム状の屋根を持ったJR二条駅の駅舎が見えた。駅自体は二階部分にあり、吹き抜けになった一階部分に入ったコンビニのそばに、ソラと京子の姿が見えた。
「今、上から来た? その、つまり、上から」
 スプーンの刺さった深緑色のアイスクリームのコーン部分を持つソラは、担がれた顔面蒼白の男と上空とを交互に見た。
 水色のてらてらした光沢のあるキャリーケースに腰を預ける京子は、口に運ぶ途中だったプラスチックのスプーンを地面に落とした。
「ああ。そうだよ」火継は担いでいたセンジを肩から降ろすと、駅舎を見上げ「この櫓みてえなのも『駅』なのか。高えな」と感心したように言った。
「うう……」
 センジは地面に四つん這いになったまま、動かず呻き声を上げた。
「ちょっと何があったのよ」
 京子が駆け寄ると、火継は生まれたての子羊のようになってしまったセンジの傍に座り込んで、背中を乱暴に二、三度叩いた。
「アンタの言う通り。物思いにふけって時間を忘れてやがった」
「やっぱり?」と京子は呆れたような顔でしゃがみ込むと、「むかしからそう言うところあるわよね」そう言ってセンジの顔色を伺った。
 京子が肩を貸すと、センジはよろめきながら立ち上がった。そして、すまない、と一言言ってとぼとぼと駅舎へ歩き出した。
 乗車券はすでに京子が購入していた。ホームに行くと、ちょうど到着のアナウンスが入る。ソラと京子は一つのアイスクリームを一緒に食べ終え、紙ゴミをダストボックスに投げ入れ、京子の持っていた除菌ティッシュで手を拭く。その後も二人は、会話を絶やさなかった。
 一時半発の特急きのさき六号に乗り込んだ四人は、椅子を回して四人席を作ると、それぞれの荷物を網棚に載せた。京子は桃色のリュックのほかに、もう一つ、キャリーケースを持ち込んでいた。窓席にソラと京子が向き合って座わった。
 列車が動き出してからしばらく京子は窓枠に肘をかけ、背中の方向に流れていく景色をそわそわしながら眺めていた。
「どうしたの」
 ソラが訊くと、京子はため息でガラスを曇らせる。
「出発しちゃったな、って」
「出発しねえこともあるのか?」
 火継はそう言って、サンタが担ぐみたいな袋からプロテインバーとワインビネガーを取り出すと、ビールで柿ピーをつまむように、交互に口に運ぶ。
「そういう意味じゃなくて、ただ」
 京子は眼鏡の奥に、やや物憂げな瞳を揺らめかせる。
「私たちの青春の一ページが、もう遥か後方ね」
 次の停車駅は亀岡駅というところらしい。
「そういえば、どうだった、二人は」
 ソラはセンジと火継を代わる代わる見て言った。何がさ、と火継が返す。
「いや、観光」
「観光?」
 今度はセンジが訊いた。恐怖体験から立ち直った彼は、持ち前の甘いフェイスを顔面に貼り付け直していた。
「俺はあまり、そういう気にはなれなかったよ。二人はなんだか、楽しそうだな」
「ああ、アタシもそう思った。何かあったのか」
 センジの意見に、火継も便乗した。
 都会化された京都の街並みが速度に乗り、枠の中を流れていく。
「仲良くなったわ。これまで以上に絆を深められたと思う」
 京子が取って付けたようにそう言ったので、センジは邪推した。
 けれどすぐにソラが微笑みかけて、「そうだね。京子のことが少し、わかったかもしれない」と言ったので、京子もぎこちない笑みを作った。
「たくさん話したよ。ほとんどオタクっぽい話ばっかりだったけど」
 おう、例えば? とセンジがやけに追及した。
「京子、UMAにめちゃくちゃ詳しいんだよ。センジは知ってた? やっぱり部長の名前は伊達じゃないね。ミステリーサークルについても、僕よりずっと勉強してる。ハートフォードシャー1678年事例について話し出した時には、さすがに震えた。京子は絶対に、ヒカリに会うべきだよ」
 ソラは何不自由ない感じでそう言った。
「大丈夫か?」
 センジが訪ねた。
「え、私?」京子が慌てて窓から離れて、背筋をぴんとさせ、「うん、もちろん、元気いっぱい」と、細い腕を折り曲げて、荒い鼻息を放ってみせる。
「ほんとかぁ。アンタ、セイリなんじゃねえのか」
 火継がそう言って、冷やかしを入れた。京子は「ちゃう!」と跳ね除ける。
「なんかこれ、冒険っぽいね」
 ソラは慌てて話題を変えつつ、車窓に視線を投げなげる。
「今更気づいたのか」
 センジがシニカルな感じで言うと、京子の足元を見やって怪訝な顔をした。
「っていうか京子、お前、荷物多くないか」
 頭上には小さな冷蔵庫ぐらいの大きさがあるキャリーケース。さらに足元にはリュックサックもある。これから歩く距離の長さをわかっているのだろうか。
 京子がキョトンとした顔をし、しばらく悩んだ後立ち上がると、少しヤケになってキャリーケースを引き下ろした。皆が見守る中で、彼女は通路上でそれを開いた。リュックの掴んで中身を全部出し、畳んで潰したリュックと共に、ケースの中に詰め直す。そして、これでどう? という自信満々の眼差しを投げる。
「いや、質量保存の法則というものが」
 ソラのつまらない話は、ぷいと横を向いた京子の耳に入ることはなかった。
 キャリーケースを網棚に戻すのを手伝うと、ソラが言った。
「修学旅行、飛び出してきてよかったよ。最初からこうするべきだった」
「そうね。でも私たちが、こうしてチームになれたのが、一番楽しいことじゃない」
 ソラの発言に、京子がそう重ねた。
 ここに集った四人はチームだ。リクライニングシートに座り、電気とレールによって運ばれていくだけの彼らは、青春の一大イベントを脱走した共犯者に違いない。
 ただソラにはその言葉がどうにも、弱気に思えてならなかった。
「違う、それはただの始まりだよ」
 他の三人を見回して言った。
「ミステリーサークルは必ず見つかる。そのために僕たちは集まった。これはそういう絆だと思う」
「確かにな。四人っていう数字には、何か意味があるのかもしれない。三人じゃ無理でも、四人なら可能な何かが」
 センジが応答した。
 ソラは確認するように、京子に目を向ける。いずれ知恵や渡辺に、もう戻らないということを伝えなければならない。この鉄道に乗っているということは、それだけで平凡と常識に歯向かう行為だった。
「僕たちだったら大丈夫だ」
 京子を取り巻く怖気を振り払うように、ソラは勇ましく言った。
 その時、ぐるる、とオオカミの泣き声のような音が聞こえ、場がしんとなる。ほどなくしてセンジが名乗りを上げた。
「朝から何も食ってない」
 センジは飲み切った五〇〇ミリペットボトルを虚しく振った。
「福知山駅、と」
 京子はすかさずスマホを取り出して、駅名を入力する。一人がスマホを見ると、それは他の二人にも伝播し、ソラとセンジもスマホの画面に視線を落とすようになる。
 その様を横目に見た火継は、まるで別の動物を見るような目をした。
「アンタら、洗脳でもされてんのかい」
 キョトンとする三人は、しばらく考えて、言われている意味をやっと理解すると、各々の時間に戻っていく。ソラだけが恥じたようにディスプレイを落とし、スマホを膝の上に置いて火継に向き直った。
「そうかも。でもこれが現代さ」
 火継は挑戦的な顔をしたが、やがて彼女にしては穏やかな表情で笑った。
「すぐに歴史になっちまうよ」
 火継は足を組んでシートを倒し、浅く目を閉じる。
「餃子、ラーメン、寿司……なんでもあるみたいね。少し歩いたところには星四つのカフェもあるみたい」
 京子が晴れやかな声で伝えた。センジの表情に安堵が宿る。
 まだ旅は始まったばかり。
 列車は景色を過去に、そして体を未来へと確実に運んでいく。
 なんだか肩から力が抜けた京子はスマホを閉じ、背もたれに全体重を預けた。

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