第二夜【鬼の子】scene3

☆☆☆

 ホームルームが終わるとすぐに京子は、黒板を経由してチョークを一本取ってソラの机の前まで飛んできて、
「なにあれ、見た?」
 と目を輝かせながら言った。
 遠くで京子の親友の知恵が、悔しそうな顔をするのがソラの目に入った。京子が真っ先にこちらへ来たせいだろう。その旨を京子に伝えようとしたが、彼女の爛々とした目に気圧され、結局、見なかったふりを決め込んだ。
「すごい。あの子すごいよ。私びっくりしちゃった。あの怪力、あの啖呵【たんか】、あと真っ赤な髪の毛。絶対普通じゃない、いえ、佐藤くん流に言うなら、マトモじゃない」
 ソラはそれとなく火継を一瞥する。
 あれから床無火継の態度は少しも変わっていない。飽きっぽいのか、机の上に載せていた両足は降ろしていたが、他の生徒が相変わらず眼中にないらしい。それでも数人、主に女子生徒が、火継の机の周りに集まって一方的に話しかけ続けている。
 ついでに視界に入った佐藤はふてくされたように、白くなった頭を重ねた腕の中に埋【うず】めていた。
「確かに変な子だね」
「ただの変人じゃないわよ。だって転校してくる時期が時期でしょ」
 そう言って京子は、火継がやったように、チョークを親指と人差し指で挟んで渾身の力を込めた。呻き声が漏れて顔を赤くするが、ついぞチョークが割れることはなかった。息を整えると、京子は火継を一瞥する。
「そもそもこの学校、そんなに編入が簡単だったっけ。それなりに難しい試験があったはずよ」
 ところが実際は、ヒカリから聞いた話だと、試験なんてなかったそうだ。訳アリの存在を編入させる際は、どうせ浅間機関が圧力を加えるのだろう、とソラは勝手に解釈している。
「じゃあ、ああ見えて勉強はできるんじゃない?」
 ソラがこともなげに言うと、京子は顔を膨らせて、普通の転校生じゃないわ、と言った。
「じゃあなんだって言うんだ」
「謎の転校生!」
 京子はわくわくを隠そうとしなかった。そわそわした体を持て余し、伸びをしたあとちょっと考えてから、図々しく尻をソラの机の上に載せて、片足を支柱にかけた。
 謎の転校生と聞いて、一瞬ヒカリの顔が浮かんで、すぐに消し去った。
「謎なわけあるか。あんなのが謎なわけがない」
 ソラは視線を膝の上に落として、ますます語気を強める。
「謎っていうのは、もっと謎めいてなくちゃいけない。自分から語るような謎なんて、それはただの身勝手な自己主張だ」
 そう、と言って少し寂しそうな表情を見せた京子は、胸から下げていた黒いケースから慎重な手つきでカメラを取り出した。液晶パネルが付いたニコンのミラーレスだった。キャップを取り、慣れた手つきでレンズをつけると、ストラップを首に通し、片手で持ちながらバーストで何枚か撮った。
「やめなよ」
 慌てて言うが、京子は大丈夫よ、と言ってカムフラージュのつもりか、佐藤の頭部に焦点を合わせる。しばらく撮るふりをしてからカメラを下げると、机から降りてソラの目の前に持ってくる。
「すごい、デジタルだと余計に鮮明だ……」
 日頃からレンズは覗くが、カメラなどとは縁のないソラにとって、液晶の小窓に浮かぶ火継の写真は、彩度が良くて現実以上の鮮鋭さを放っている。
 なぜ彼女の髪はあんなに紅いのだろうか。ぼんやりと考えていると、京子が、
「スキあり」
 と言って今度はソラを標的にした。
 やめろよう、と言ってやんわりとした拒絶を表すと、良いじゃん減らないし、というありきたりな返答を送りつけてくる。
「減るよ。君のメモリーが」
 と言ってソラがカメラを指差すと、
「私の記憶【メモリー】なんだから使い方は自由でしょ」
 と言って京子は楽しそうに微笑んだ。
 真を写すと書いて写真だけれど、撮るのと被写体それ自体を持ち歩くのとは全然違う。ヒカリならきっと、写真なんて撮らずに、あの髪に直接触れて、どこの惑星出身ですか、なんて言い出すんだろうな。そんなことを思いながら、ふと椅子から背中を離すと、シャツが背もたれにべったりと張り付いていることに気付く。
「なんかこの部屋暑くない?」
 ソラが言った。京子は手うちわしながら、私もそう思う、と応答する。
 下げてくるわ、と言って京子は教室の入り口付近のパネルに空調の設定に行くと、すでに設定温度は二十度、風量は最大を指している。おかしいと思って電源をつけ直すが、頭上ではごうごうと音が鳴り出すのに、体感温度は全く下がらない。
「どうだった」
 ソラが訊くと京子は、壊れてるみたい、と首を振った。


 昼休みの時間になると、井戸端会議に隣のクラスからセンジが参加した。ソラと京子はまず、今日あった出来事のあらましをセンジに説明した。
「転校生って言ったら誰かを思い出すな」
 センジは口をついて出た一言をもう一度喉の奥に返すように口に手を当てると、すまん口が滑った、と言ってソラを見た。
「そんな、気にしないでよ。確かにヒカリとは大違いだ」
 センジが頷いた。
「そっちは何かないの? 今日のハイライト」
 京子がセンジに訊いた。
 センジは首を捻ってから、特にないな、と言った。
「なんだよ、つまらない男だね」
 ソラの言葉に眉をひそめるセンジだったが、何か閃いたようだ。
「そういえば木下っていうやつが家庭科の時間に、スマホを天ぷらにした」
 京子が、なんでそれをすぐ言わないのよ、と言って笑う。
 食堂へ行くという話になった。このままだらだら話していたら座る場所がなくなっちまう、とセンジが言う。
「先行っててくれない? 僕はちょっと、天体観測部の部室に用があるから」
 二人は頷いて、先に教室を出ていく。
 ソラも部室に持っていくための天体夏合宿の資料をファイルに詰め替えて立ち上がると、火継が袋から何か黄色い液体の入った瓶を取り出しているのが見えた。
 机の上には、チョコレート味のプロテインバーが入っていた袋が、無数に散乱している。火継は瓶の蓋を取った。するとつんと鼻を刺す匂いが漂ってくる。
 ソラは目を凝らすと、瓶のラベルに穀物酢と書かれているのがわかった。
「酢……!?」
 火継は食用酢をラッパ飲みしていた。強烈な酸っぱい匂いが充満し、半数の生徒が一瞬、火継の方を見た。が、そこには火継の「なんか文句あるか?」という瞳が待ち受けている。
 椅子を引く音が響くと、火継は立ち上がっていた。なんとなく、一緒に出ていくのが憚【はばか】られ、火継が教室から出るのを見届けると、一呼吸置いてソラも立ち上がる。
 赤々しい髪、異常な運動神経、それに酢酸を直飲み……。ソラの、おかしなものを識別するセンサーがビンゴを知らせている。
 ソラも教室を出て、急ぎ足で食堂へ急いだ。
 道中で、男の怒鳴り声が聞こえた。大砲のような怒りの声に、その場にいる誰もが足を止める。
 近頃、廊下で怒鳴り声を聞くことは多い。中でも多いのが、この低くてよく響く軍隊調の声だ。この声を聞くだけでソラは、ある男の顔を思い浮かべる。
「貴様! なんだその髪の色は!」
 風紀部長、徳川勇【とくがわいさみ】は身長一九〇センチを超える巨漢の生徒だ。
 生徒会の力が弱まった今、食物連鎖のピラミッドが推移するみたいに勢力を拡大してきたのが風紀部だった。
 風紀部は生徒手帳に書かれた生徒のあるべき姿を模範とする、生徒手帳原理主義を掲げている。彼らによれば、髪染めは重大な背信行為だ。
 まさか、と思ってソラは早足で進む。角を曲がると徳川の壁のような背中が映り込むが、彼が折檻している生徒の姿が完全に覆われてしまって見えない。
 天体観測部の部室がある部室棟へは、まっすぐ行くべきだった。しかしどうしてかその足は、左へと曲がって来客の靴箱がある広い空間へと向かっている。
 角度が変わって、足止めを受けている生徒の顔が見えた。
 人でも殺したかのような目つき。燃えたぎる赤い髪。身長差は一・五倍は下らなかったが、床無火継は怖気付くどころか、戦う構えだった。
「顔を上げろ。そして私の質問に答えろ」
 徳川が威圧的に言った。
「なんだよデカブツ。アンタがどんな質問をしたって?」
「その鬼のような髪を何だと訊いている」
 体格差など意識にないようで、火継は一歩も引かない。
「アタシは急いでんの。戦争の残り火が、アタシの尻をファックしてくる。アンタらには関係ねえことさ。あんまアタシを怒らせんな」
 火継がぐっと拳を握り込んだ。嫌な予感がした。赤い髪が不自然に逆立って、側を通り抜けようとしたソラの左半身に熱風が吹き付けられる。
 火継はぐっと尖った犬歯を噛み合わせた。牙と牙を削り合わせ、ガチガチと音を立てる。薪に近づきすぎた時のような、炎天下のビーチサイドで寝そべった時のような、体の内側から熱せられるような暑さがソラを襲った。
「なんとか言いたまえ」
「敵意を向けたな、このアタシに」
 理由はわからない。しかしおかしなものを検知する感覚が、ソラに足を踏み出させていた。
「こんにちは、徳川先輩。こんなところで何してるんですか? ああ、もしかして髪の色のことを注意して」
 声をかけながら、それとなく火継と徳川の間に体をねじ込ませた。
「貴様何者だ。今は風紀活動中だぞ」
「アンタ何のつもりだ」
 徳川と火継、校内で最も目をつけられたくない二人から同時に睨まれる状況。飛んで火に入るとはこのことだ。
「僕は彼女のクラスメイトです。ところで髪の色を注意していたんですか?」
「ああ、その通りだ」
 徳川の苛立ちは語気に現れる。ソラのとぼけた顔は通りすがりを演出するためだったが、実際には逆効果だった。
「でも、一体何を注意するって言うんですか」
「一目瞭然だ。この髪の色は、完全なる校則違反。校法第十六条『身なりについて』二項『髪型・髪色について』を要参照!」
「待ってください、徳川先輩は手順を大切にする人間だと伺っております。だったらまず確認するべきです。赤毛の生徒がこの学校に、二人といないことを」
 徳川が生徒手帳を取り出そうとする中、ソラは畳み掛けた。
「それをせずに染めているって決めつけるのはどうなんですか。確かに髪が緑色だったら、それは異星人でもない限り着色したと言い切れますよ。でも赤毛の人間はこの地球に実在します。言っておきますが、彼女はハーフですよ?」
 徳川は、そこまで言うなら確認しよう、と言い残してその場を去った。
「それで助けたつもりかよ」
 火継が喧嘩腰でソラに詰め寄る。
「恩着せがましくするつもりはないけど、ただ」
 そこでソラは、言葉を詰まらせた。どうして彼女を助けるようなことをしたのだろうか。何か悪い予感がしていたのは確かだが、それだけではないはずだ。
 この学校に転校してきて、人間関係に苦しむ人を間近で見てきた。その人は、共同体に馴染もうと必死に足掻いていた。
 けれど床無火継はそれをしない。たった一人で生きていけると思っている。
「君は思っているより強くないってことを、伝えたくて」
「いい度胸だ」
 火継の小さな手が伸びてソラの襟を引き下げると、ソラの体は前傾に曲、シャツはギチギチと音を立てた。
「けど敵意じゃないね。なにさ、その感情は。哀愁か?」
 ソラは俯いたまま、言葉を発さなかった。火継は手を離し、ニヒルに笑った。
「変な男だ」
 言い捨てると、ベルトに留まった機械の画面を一旦見てからソラに視線を戻す。
「おい、お節介クソ男に最高のご褒美だ。一つ、アタシの質問に答えさせてやんよ」
 ソラが静かに頷くと、火継は言った。
「人事部はどこだ」
 この学校で人を探している、と言った。そんな彼女がまず向かうべきは、職員室だろう。だが、喧嘩上等の不良少女が探す相手とは誰だろう。父親に関係する人物だと言っていたが、何代も続く不良グループの噂なんて三竹ヶ原にあっただろうか。
 ソラは火継の背中を見送った。
 ふと地面に視線を降ろすと、赤黒い液体が数滴、垂れていることに気付いた。触れると生暖かいそれは吸い付いてきて、ソラは赤く滲んだ指先の匂いを嗅いだ。
 鉄の匂いがした。
 慌てて男子トイレに駆け込んで、洗剤で何度も手を洗った。
 ソラは全身を確認してみるけれど、どこにも傷はない。だとしたらあそこにいた二人のものだが、流血沙汰により近しいのは火継のように思える。
 しかし、どうして血が?
 クソ親父って、まさかね。

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