第一夜 【サイカイ】 scene1

 ☆

 校門を出るとすぐに、つばの大きい真っ赤な帽子を被った男女が四、五人集まって壁を作っていた。彼らは帽子と同色のトートバッグから何かを取り出して、流れ出る生徒たちに声かけしながら手渡している。
 街路樹が落とす影に鈍色の実が落ちて、人々の往来に踏まれぐちゃぐちゃになっていた。影の上にたたずむ集団は全身をすっぽり覆うポンチョのような服装のおかげで、魔道士のように見えた。
 手渡されているのは、折り曲げると冷たく感じる吸熱シート。ビニールの中には、直径五センチほどの缶バッジも同梱されていた。まんべんなく赤が塗り付けられたバッジには、黒く太い文字で十二・八と描かれている。
 吸熱シートはこれからの季節、きっと重宝する。しかし賢木空はすんでのところで受け取るのを拒み、中立と潔白を守った。
――我々は被害者だ!
 背後から腹の底に声が響いた。
――政府に訴えましょう。
 そうだそうだ、と擁護する声が飛ぶ。
――あの日私たちは、多くを失いました。そうでしょう?
 それらの言葉が呪文のように、幾度となく繰り返された。
 ここ連日にわたって、彼らは校門前に居座っている。一説によると、教頭が許可を出しているらしい。ソラは振り返ることなく、道路沿いを進む。
 日本史のノートと筆箱を机の中に忘れてきたことに気付いた時には、すでに三つ目の信号を過ぎていた。戻ろうとわずかに考えたが、あの集団と二度も顔を合わせたくなかった。
 最寄りの歯科医院。初診は一律二千円で、インプラントは十万からだそうだ。看板は電気が切れ、水汚れが目立ち始めて久しい。花壇を兼ねた垣根は煉瓦が砕けてぼろぼろだ。危うく破片を踏んでしまいそうになって、足をもつれる。しまった。路上で変なステップを踏むと、そこに自転車に乗った中学生ぐらいの女の子が通り去って、嘲けるような微笑だけを残していく。
 さらに進むと、スクランブルの十字路にたどり着く。双子町二丁目。ここで左に曲がると家に着くし、真っ直ぐ進むと歓楽街だ。
 三竹ヶ原の遊び場と言ったら商店街や居酒屋が立ち並ぶアーケード街か、今年二月にオープンしたばかりの複合型商業施設の『ロックアベニュー三竹ヶ原』か。選択肢はあといくつもない。
 生憎の信号待ち。ここは長いのだ。ガードレールに座ろうとしたけれど、かなり凹んでいて座っていると体が斜めになってくる。信号が変わるまで持ち堪えられそうになかった。尻を離すと、骨盤の出っ張ったところにじんとした痛みが走った。
 こうした損傷は、半年経っても一向に直される気配がなかった。誰も明言していないが、市にその予算がないというのは明らかだった。
 ソラは無意識に道路の向こうを見やった。何を探すわけでもなく、誰を呼ぶわけでもなく、ただなんとなく視線をたゆたわせる。すると、いつも見慣れているはずの電柱が、少し傾いているということに気づく。目を擦ってもう一度見ると、やはり少しだけ左に傾いている。これでまた、記憶の中の事故物件が一つ増えてしまった。
 昨日は、角のラーメン店の裏口のガラスが、黒いダクトテープでつなぎ止められているのを発見した。そういう壊れた建物を見るたびに、ソラはあながち場違いでもない自責を感じ、その感覚から逃げるように自分の痛みを思い出した。
 けれど壊れているのは建物じゃない、街そのものだ。
 しばらくあまり周りを見ずに歩いた。耳に刺したイヤホンからは、スピッツの『ロビンソン』が繰り返し再生されている。
 見えてきた。施設の大型立体駐車場。初めてスタバが来たと騒ぐ以前に、この街初の大型立駐だ。
 小ぶりの観覧車が上半分ほど、屋上に見えた。その隣で、巨大な地球儀のオブジェが目を引く。ロックアベニュー三竹ヶ原のコンセプトは地球愛。宇宙にいちばん近いと自称する街で、いちばん目立つものが地球儀だなんて。
 雲の隙間から顔を出した太陽と、地球儀が連なっている。ソラは睨むでもなく見上げた。二次元的には、地球儀の方がずっと大きく見える。少し滑稽だった。あの偽物の地球はまさに、人類が地球にしがみついて生きている象徴ではあるまいか。
 施設を、侵略者だと言う人たちがいる。半年前に起こったあの〈赤い夜〉に乗じて、大企業が町に乗り込んできたのだと。実際には施設の建設は何年も前から計画されていたことだったけど、工事の最中に起こった赤い夜を受け、オーバストン・ホールディングスが運営方針を変えたことは、住民の目に芳しく映らなかった。
 それでも施設の存在は、この街をどんなに豊かにしたか。誰もが一度は行ってみたいあの店この店が、一つの商業都市の中に詰め込まれているのだ。
 ソラは右手を見る。路上駐車が目立つ通りには、駐車場へと向かう車の列が出来上がっていた。施設を背にして、少し強引にその合間を駆け抜ける。十階立てくらいのビルに挟まれた日当たりの悪い路地に入ると、車通りはぐっと減って人の数もまばらになった。ジメジメしているけれどそれほど嫌な感じのしない通りだ。そこを抜けると開けた空間に出て、天井が透明なドームに覆われ、赤白オレンジのまばらなタイルが足下を彩る昔ながらのアーケード街が目の前に姿を現す。
 入り口のアーチに掲げられた『あまのがわロード』というさびれた看板を見上げ、「一年に一度じゃ商売にならないね」と、ソラはひとりごちる。
 曇り空がゴロゴロと鳴った。
 最も手前にある店は、青果店と小物屋だった。
 青い前掛けを締めたご主人が、段ボール箱にどっさり入った温州ミカンを店頭に補充していて、若い男女がメロン串を一本五百円を買った。男女は三日月型に切り出されたメロンをかじりながら、気の良い小太りのおばちゃんの発する何かしらの磁力に引き寄せられ、小物屋の方へとふらふら流れていく。最初は見るだけといった距離感だったが、おばちゃんの巧みな話術によって、次第に購入意識が育てられていることが、傍目のソラにもわかった。
 宇宙にいちばん近い街。
 町内会発行のポスターが店内の至る所に貼られている。
 昔はご当地仕様のキャラや、お茶にまつわる何か、根付などの民芸品が主だったが、今はどこも宇宙一色で売っている。ミニ望遠鏡に星空を模した万華鏡、典型的なタイプの宇宙人キーホルダー。
 ソラも店に入ってキーホルダーを眺めていると、炎のように赤い髪をした小柄な女性が入ってきて、何やら店員に話しかけている。街は海外からの観光客も積極的に誘致していて、その効果の現れだろうか。
 典型的な宇宙人は円盤に乗っていて、赤く着色された雲のようなものが小さな金属のチェーンで連結された、二段構えのものが多かった。雲の形は妙にリアルで、ソラに、あの日のことを思い出される。
 赫夜【かくや】。
 その死傷者は、確か五百人にのぼるんだったか。
 ドン、という鈍い音でソラは現実を見る。赤い髪の女性がポニーテールを激しく揺らし、大きな足音を立てて店を飛び出していった。
 そりゃあ、文化の異なる存在を呼び込めば、トラブルはつきものだ。
 近くに、餃子屋と立ち食いそば屋があった。もやしの載った浜松餃子の写真を横目に見る。よく考えると、餃子も原型を残していない料理の一つだ。ヒカリと一緒に来たら、喜んだだろうか。
 気付くと後ろにスーツ姿の団体客がつっかえていた。すぐに店頭から退いたソラは、その隣にある喫茶店、『ムーンバック』へと逃げるように入った。
 扉を開けると、からんからんと音が鳴って、乾いた涼しい風が鼻先に触れる。
 カウンター席と四人掛けのテーブルが三つ。手前のテーブルでは、高齢の女性が一人でアイスコーヒーを飲んでいる。カウンター席には若い男女の組と、中年男性が一人。それと、奥のテーブルに若い男が一人座っている。
 ソラはカウンター席を横切って奥まで直進した。男はパッドから目を離してソラを見上げる。切れ長の目にシャープな顎、さしずめ子役時代のエドワード・ファーロングみたいな風貌で、スクエアフレームの眼鏡が少し浮いている。
 男の名は石上千次。現代の財閥とも呼ばれる石上家の次男だ。
「窓際席、取られた」
「お前が遅いからだよ」
 ソラが言うと、センジは調子を合わせて返した。
「いや、実はついさっき来たところだ」
 テーブルの上に開いたコーヒーミルクと砂糖の袋が二つあって、どちらも片付けやすいように小さくまとめられている。きれいに混ざったミルクコーヒーはコースターのほぼ中心に乗っていて、机には水滴の一つも落ちていない。
 ソラは腰掛けて、センジの眼鏡をまじまじと見る。やっぱり、整った顔立ちに無骨な眼鏡がどこかミスマッチだ。
「眼鏡」
「ん?」
「似合ってない」
「ありがとう」
 センジは軽く言って、コーヒーを口にする。そしてしばらく窓の外へとやっていた視線を再びパッドに戻す。
 ソラは鞄を開けて、いくつかの書類と天体観測部Ⅳと書かれたノートを取り出した。書類は歩いているうちにファイルの中から抜け出し、折れたりシワができたりしていた。これは確か、後輩の千島に頼んで買いに行かせたものだったか。あれほど事務用品は百均で買うなと忠告したのに……。
 ノートを広げ、夏季合宿の計画を練り始める。阿藤誠司が卒業し、ソラは天体観測部の部長になっていた。しかしやることは去年とほとんど変わらず、イベントの企画立案。そこに『部長としての責任』が加わったというだけである。
 今年は十二・八の影響もあって、新入部員が十人も入った。そのため天体はもはや弱小ではなく、中堅文化部として見られている。
 街ぐるみで一つの出来事を追いかけ回すのは虚しいけれど楽しかった。しかしどうにも学校では仕事が捗らないので、こうして喫茶店へ通うのである。
 ソラが手をあげると、バイトの女性がパタパタと走ってきて、帳面を胸の前に突き出して身構える。
「ご注文は」
「えっと、じゃあミルクで」
 ソラが言うと、女性はぽかんとした顔をした。
「ミルク、ですね。え、あっ、えっと、砂糖は入れますか?」
「入れません」
「わかりました、コーヒーのミルクで……、あれ」
 そこまで言うと、女性は眉間にシワをよせて一瞬黙り込んだ。
「お客さま、ご注文は紅茶でしたっけ?」
「いえ、だから、ミルクです。ナチュラルの」
「ナチュラルの……」
「ミルクってありませんか? ただのミルクです!」
 女性はやっと理解したらしく、赤面して勢いよく頭を下げたあと、そそくさと厨房の方へ戻っていく。
「牛乳です、って言ってやればよかったのに」
 センジが目もくれず言ったが、ソラは承服できなかった。
「それじゃあただの牛乳になっちゃうじゃないか」
「元からただの牛乳だろ」
 と、指を画面に走らせ、電子書籍のページをめくる。
「違うよ。なんていうか、牛乳とミルクって別物だと思う」
「どう違うんだ」
 ソラがしばし考えていると、ブリキのお盆に乗ったワイングラス入りのミルクが運ばれてきて、テーブルに置かれる。からん、と氷がぶつかる音が耳に涼しい。
「そうか、氷だ。ミルクには氷を入れていいけど、牛乳は違う。そんなお洒落なもんじゃない。それに喫茶店でわざわざ飲むもんじゃない」
「なるほど、気分の問題か。それなら理解してやってもいい」
 センジがページをめくる。パッドの光が薄いレンズに全反射して、一瞬眼鏡がきらりと光った。
 ソラはグラス入りのミルクを一口飲むと、センジの顔をじっくりと眺める。
「学校ではコンタクトなのに、どうして眼鏡を?」
 生まれてこのかた眼鏡をかけたことのないソラには、純粋にわからないことだった。センジは淡褐色が均一に混ざったグラスを口まで持っていくと、眼鏡を取って机の上に置いた。そこには疑いようのない美青年が座っている。
「コンタクト、嫌いなんだよ。目、疲れるし」
 言うと、目頭を押さえて、こめかみを緊張させたり弛緩させたりする。
「アイドルがそんなこと言っていいの?」
「今はもう違う」
 センジはキッパリと言った。彼はヒカリに贈り物と告白をはねつけられてから、何かが変わったらしい。クリスマスの音楽祭ではソラと一緒にバンドを組んだし、春休み中にも何度か顔を合わせた。前生徒会長、御門京平のお見舞いに行った時も鉢合わせて、それで散々な目に一緒に遭った。
 センジが学園のアイドルでいることをやめたのは、生徒会長のおぞましい最期を見届けたからかもしれない。かつてのセンジの仕草や言葉遣いは、『王子』としての熱心なキャラクター作りだった。けれど彼はもう、生徒会長を目指すことをやめたのだ。
「今は好きなグラビアアイドルのエッセイが読める」
「うん、その意気だ」
「なんなら明日からジャージで学校行ってやるよ」
「素晴らしい。君は成長したよ」
「最初からこんな俺だったら、あいつは好きになってくれたか?」
 ソラは押し黙った。センジの目が、逃げるようにまた窓の外に向く。上空を眺めているような角度。見えているのは灰色の空だけ。分厚い雲に阻まれて、宇宙のカケラだって映りゃしない。
 ソラは言葉を紡げずにいた。かちん、とグラスの中で氷が割れる。
「ジョーダンだよ」
 センジが言った。悪びれる様子はない。自然な感じで。事実、彼は何も悪いことを言っていない。ただ過ぎ去った日々と少し貪欲に、繋がりを保とうとしただけ。
「宇宙人と出会える街、なんて笑っちゃうぜ」
 センジが軽く嘲るように言うと、ソラは、そうだね、と言って返した。
「でも俺たちは会ってたんだよな。俺たちは確かに出会っていた……」
 今度はセンジが黙った。
 そして会話のバトンが、この沈黙への責任が、ソラに渡った。
「この街に降り立った宇宙人は十二月八日に、宇宙に帰っていったよ。街をボロボロにして、たくさんの巻添えを出して。でも、見たでしょ。どこもかしくもそれを忘れて過去を売り物している。僕にはなんで、あんなことができるのかわからない」
「そりゃみんな、前に進まないといけないからだ」
 前に進むって、なんだろう。考えていると、目の中にチリが入り込んで、想像以上の痛みが刺した。放っておけば多分涙で勝手に流れていくのに、触るものだから、よけいに涙が出た。
「僕は今でもヒカリのことを夢に見る。彼女が僕の名前を叫んでいるんだ」
「そうだな、ソラ。お前を呼んでいるんだ」
 センジがソラを見る目が、いつの間にか慈愛に富んだものに変わっていた。
「なのにどうしてだろう。僕は精一杯やってる。そのはずなんだ」
「お前は精一杯やってるよ」
 センジが宥めるように言った。
 ソラは目を閉じて深呼吸した。窓のわずかな隙間を通して、湿潤な空気が鼻腔に流れ込んでくる。くしゃみをしたくなって、鼻の下を手で覆った。体が跳ねるほど大きなやつが出た。紙ナプキンで汁を拭こうとして、予想の四倍必要になった。
 それからしばらく、ソラはノートと向き合った。部活をしていると、ほんの少しでも寂しさが紛らされた。センジももしかしたら、そのために読書を続けているのかもしれない。
 三十分くらい経った頃だろうか。
「それで昨日の話って?」
 ソラが切り出した。昨夜十時過ぎに、センジから飛ばされたメールについてだ。
「お前に会いたいって人がいる」
 ソラの猜疑の目がセンジに向かった。しばらく沈黙を隔てから、なんで、と乾いた声が放たれる。
 センジは少し困惑してソラを一瞥してから、わからないけど、と答えた。
 壁面には、動物の牙を使った部族のお面のようなものが吊り下げられている。アンティーク時計のコチコチという秒針の音が響く。
 これまでにヒカリについての情報目当てでソラに近づいてきた人間は数知れなかった。ソラには、特に理由もないのに初対面の人間に「会いたい」と言う人の気持ちが、正直わからなかった。
 ソラが顔を伏せると、センジはやや身を乗り出して、
「俺の幼なじみなんだけど」
 と言い加えた。
 ソラは内心、驚いていた。上流階級の舞踏会のようなシーンが頭に浮かぶ。そんな相手が、一体またどうして。
「そんな勘ぐるなよ」
 ソラは自分の眉間にシワが寄っていることに、言われて初めて気がついた。
 センジはなるべくラフな態度を選びながら、
「大丈夫、普通の子だからさ」
 と、言った。
「うん」
 たとえ友達からの頼みであっても、あまり興味が持てなかった。今は誰とどんな出会い方をしても、心を揺れ動かされないという自信があった。
 幼馴染。
 ソラにもそういう相手がいたとすれば、それはこの三竹ヶ原に住む人間ではない。中二の夏に祖父母の家に引っ越してから、古い友達との連絡は徐々に絶えていった。思えばその頃からだ。天体観測に夢中になり始めたのは。
 オサナナジミ。
 その言葉だけを切り取って考えてみた。
 ヒカリの世界では、人間の関係性を表すために二万もの単語を用いる。『友達と奴隷の中間』が『クリッパ』で、『罪を共有する恋人』が『ソーラ』。
 それじゃあ、『幼馴染』は何と言うんだろう?
 今更それを確かめる術は、この地球上のどこにもない。

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