第二夜【鬼の子】scene9

★★★☆★★☆★☆

 火継が屋上のドアを蹴り開けると、そこへ風紀委員、野次馬たちが続く。
 アラームの音量と頻度は増している。
 生徒たちは奇妙な一体感に包まれていた。まるで人類の天敵を彼岸の瀬戸際まで追い詰めたような、正義を旗印に悪を討伐するような高揚感があった。
 徳川勇は、少なからず誤算を感じていた。職員室か、あるいは保健室へ連れていくつもりだった。それが屋上に追い詰めたところで何になる。彼はナンセンスをわかっていた。わかっていて止められずにいた。
 鬼は外。
 豆まきにしては半年ズレている。しかし人はいつだって鬼を追いたがる。ともすれば適当な鬼を探してさえいる。
「来るなッ」
 火継の声が湿った大気にビリビリと響き渡る。遅れて屋上に出たソラたちは、息を切らしながら生徒たちの間をかき分ける。
「それは聞きかねる」
 徳川が言った。彼のしつこさには目を見張るものがある。
「ちげえんだ、アンタらのために言ってる。ほら聞こえるだろ、ガイガーカウンターが鳴ってる。毎時五ミリシーベルトを超えたってことだ」
 その場にいた全員の頭に、福島での事故が過ぎる。ガイガーカウンターが放射能測定装置の異名であると知らなくとも、シーベルトという単位がテクノロジーによる災害報道に用いられるものだということを知る者は多かった。
「アタシは誰も傷つけたくない!」
 火継が叫んだ。その時だった。
『素晴らしい』
 突然、頭上から声が降った。拡声器から放たれた若い男の声は、降下するヘリコプターの飛行音とともに大きくなった。
「V22だわ!」
 京子がヘリを指差して叫ぶ。高速回転する二枚のローターがそれぞれ薄い円形の影を作り、その中心を濃い本体の影が貫いている。垂直離着陸が可能なヘリコプター。富士の米軍キャンプに配備されたやつだ。
『君らは実に優秀です。優等生。あっぱれ。その女を炙り出してくれました。あとでアメをあげましょう。約束ですよ。だから今は下がっていてくださいね』
 ソラとセンジは顔を見合わせた。互いの頭の中で、ある男の顔が共有される。二度目の男の声に、もう迷うことはなかった。この男と、二人は会っている。
 二月十四日、京平が死んだ日。彼をリスクに認定した白いポロシャツの男。
 火継は直立した姿勢から尻が地面に着くぐらいしゃがみ込むと、縮めたバネを一気に放つように、跳び上がった。その体はロケットのように、面白いぐらい垂直にヘリ目掛けて飛んでいく。
 直後にヘリから大小二つの影が飛び出すと、その大きい方が火継の体とぶつかってそのまま屋上へと落下した。建物で言うと、五階か六階ぐらいの距離だ。しかし響いたのは人体が潰れる鈍い音ではなく、コンクリートが削れる音だった。
 黒服の男女。ソラはその顔に見覚えがあった。
 かつて御門司郎の元で護衛役を務めていた二人。徳川勇さえ子供のように見えてしまう大男の巌と、京子とほぼ変わらない背丈の息吹。しかしソラの知る二人は、ビルの六階から飛び降りて無表情でいられるような人間ではなかった。
 巌は火継の体を股下に挟んで、押さえ込んでいる。
 熱気が増し、汗がぶわっと吹き出した。
 もはや六月の大気ではない。
 火継の呻くような声。続いて巌の巨体が、バスケットボールのように空に吹っ飛ぶ。跳ね起きた火継はその牙を伊吹に向ける。
 だが視線が交わされたとき、息吹はすでに一歩を踏み出していた。恐ろしく間延びする歩幅は、ほんの三歩かそこらで火継の鼻先まで息吹の体を運んだ。そして全身の重さと速度を乗せて、火継の額に向けて掌底【しょうてい】を放つ。
 反った女子高生の体は、後方回転して受け身を取ろうとした。その宙に浮く背中と地面とのわずかな隙間に滑り込んだ息吹は、地面に触れる直前の火継の手を、大外刈りの要領で足で払った。
 受け身を妨害されて転がった火継の小枝のような足を巌が掴み、砲丸投げよろしく投げ飛ばした。
 物凄い音を立てて、ぶつかった貯水タンクがどくどくと水を吐き出す。
「巌さん、伊吹さん、どうして……」
 巌は頭だけは、依然火継の方へ向けている。昔見た時より一回りも太くなった腕。その手首の付け根にバーコードのようなものと、数字が見えた。F17。
「見ないでくれ」
 巌はパイプオルガンのような低い声で言った。そして袖を引き伸ばしてぶっきらぼうに手首を隠すと、ソラに完全に背を向けてしまう。
「あの頃とは違う」
「あの後、何があったんですか」
 巌と伊吹は、ナノマシンによって宇宙船の操り人形〈ドール〉と化した御門京平と戦い、敗れている。やせっぱちの高校生一人に、黒服の大人たちが拳銃を抜いても敵わなかった。そしてソラは、その後、黒服たちがどうなったかを知らない。
 巌はしばらく黙り込んだ後、束の間、視線を伊吹へと流す。
「伊吹じゃない」
「え、じゃあ」
「伊吹は、いない。あれは凪だ」
 凪と呼ばれた女性は、ソラの記憶が正しければ、伊吹だった。少なくとも外見的には完全に一致している。一卵性双生児。そう考える他ない。
 しかし巌の「いない」という言葉が、いやに耳に残った。もう浅間機関に「いない」ということなのか。それとも……。
 京子はタンクに沈んだ体でもがく火継を、瞬きできずじっと見つめていたが、
「ひどい」
 と、ついに沈黙を破った。しかしそれが、自分の喉から出た言葉であるということが、しばらくの間信じられなかった。
 その時ヘリが降下し、縄梯子を降ろした。
 そして白いポロシャツの上にレインコートを着た男が、緩慢に降りてくる。屋上に立つと、男は口に咥えていたクリップボードを胸の前に抱えて、京子を見て言った。
「ひどいのはどちらですかね、お嬢さん」
 狐のような顔をした優男は続けた。
「その女が何をしたか知っていますか。私たちの仲間を十人も殺害したのですよ。半数が妻帯者で、ある者に至っては来週子供が生まれる予定でした」
 京子は絶句して、俯いたまま口をつぐんだ。しかしソラは、つぐまされたのだと思った。事実は何とでも言い換えられる。二〇〇万人を『殺した』という自責があったヒカリは、実のところ、ただ天真爛漫である、というだけだった。
「撃ってきたのは……奴らだ……」
 給水タンクからやっと片腕を引き抜いた火継が、声を投げる。
「まったく聞き惚れるほどの正当化ですね」
 男はクリップボードからペンを引き抜いて、火継に向ける。
「なんであなたがここに」
 一人、また一人と減っていく雑踏の中から前へ出たソラが訊ねた。
「血ですよ」
 男はこともなげに言った。
「ナノマシンには固有の信号【スピン】があります。それらは普段、集団化することで撹乱をかけていますが、少ない個数で体外に出ると、検知が可能です」
 男は指先で回していたペンを止め、その黒い先端でソラを指した。
「これはこれは、コネクター。お初にお目にかかりります。それとそちらは、石上製薬の……。なるほど、お二人はご学友であられましたか」
「初めてじゃない」
 センジは握っていたファンタグレープを地面に置き、抑えた声色で否定した。
「北病棟四階の、四〇〇号室で会っていますよ」
 男は合点がいったような顔になって、しげしげと頷く。
「なるほど、君らはリスク412の時の」
「そんな風に呼ぶなよ。御門京平だ、あの人の名前は」
 センジが上体を突き出して凄んだことに、ソラは驚かされた反面、勇気づけられもした。二人は互いに一目置く存在だった。プレッシャーに蝕まれて道を踏み外し命まで落とした京平と、それをたまたま免れたセンジにどれほどの差があっただろう。
「失礼。多忙なもので」
「じゃあ構ってくんなや!」
 救急車の時のように、声が歪んで聞こえた。男が振り向いた時にはすでに、火継の手が首元まで伸びている。しかし男はまるで映画でも観ているようだった。泰然として優雅。まるでこの場の全員に命の授業を披露する胡散臭い先生みたいだった。
 巌が折りたたんだ上腕と前腕を突き出し、火継の手刀を貫かせる。ソラとセンジは競うように京子の前に出た。飛び散る血液がレインコートにかかる。悲鳴を上げた京子はソラの袖を引く。
 巌の右腕がぼこぼこと膨れ上がった。火継は刺さった掌を引き抜こうとしたが、びくともしない。
「傷が塞がっていくわ……」
 京子は二人の肩と首の隙間から、ナノマシンの猛威を垣間見た。顕微鏡で見る細胞分裂が、現実のスケールで起こっているようだった。火継の右手首は瞬く間に、肉の渦へと埋まる。
 そこへ、一本の光の線が突撃する。
 凪、という名前は皮肉だ。彼女の動いた軌道は、足元についた黒い炭によってはっきりと見て取れた。手には青白く輝くタガーナイフを持ち、それを火継の左手が素手で受け止めている。
 凪はナイフを斬り下ろし、返す刀で斬り上げた。セーラー服が両断され、赤く染まった下着姿が露わになる。
「火継さん!」
 京子が叫んだ。ソラとセンジが微動だにできずにいると、ちょっと何見てるのよ、と憤って、背後から二人の目を塞ごうと試みる。
 巌が残った腕で火継の腹に手を回し、抱きしめた。露出した腹部にタガーナイフが突き刺さる。じゅうっ、とフライパンに肉を落とした時の音がする。
 うおお、と地鳴りのような声が響く。その雄叫びは狐顔の男をも怯ませた。
 両足を広く開いて地面を捉えた火継は、腹筋と腕の力だけで巌を投げ飛ばした。凪は地上一メートルを滑空する巨体の下をすり抜け、火継の側面に回り込む。
 が、その時には火継の両手が対流するマグマのような色を帯びていた。やがて完全にオレンジの光をした小さな二つの手は、太陽を直視した時のように残像を作った。
 ソラは肺に入る空気が凍りつくのを感じた。
 今度は、熱が吸われている。
 火継は重心を落として燃える手を静かに地面に沈めると、コンクリートは泡を吹き出してドロドロになった。
「うそだろ」センジが震える声で言った。「コンクリートの融点は二千度だぞ」
 青白い短剣と太陽の手がぶつかり合う度に、強烈なフラッシュが焚かれる。
 巌が反対側から押さえ込もうとする。
 凪は差し違える覚悟で突撃をかける。
 太陽の手が目一杯、左右に突き出された。吐き出された熱量はこれまでの比ではなかった。熱気が津波のように押し寄せ、その場にいる人間をあまねく飲み込んだ。
 野次馬はおろか、風紀部の人間も姿を消した。ソラたち三人は、今の立ち位置を変えないことで精一杯だった。火継を中心とする空間が、魚眼レンズで見るように歪んでいた。
「熱の壁。またそうやって殻にこもる」
 巌を遮蔽物にして隠れる狐顔の男が言った。
「ナノマシン。その始祖を、錦と呼びます。かつて漁師ヨツギが舐めたと言われる、最も純粋なヘテロ。天人から与えられし、不滅の薬」
 火継は両手をだらんと垂らし、項垂れながらも男を睨んでいる。
「しかし純度の問題ではありません。問題なのはナノマシンに蓄えられた情報です。ナノマシンとは生体と情報、個と自然、生命と記憶とを結びつけるメタ・デバイス。ヨツギとともに一三〇〇年を旅したバージョン3・0が、彼の死によって末子であるあなたに譲渡されました」
「アタシに何を求める」
「何も。ただ〈ケージ〉に入ってもらいます」
「何を根拠に!」
「なのであなたには今から、リスクになってもらいます」

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