第二夜【鬼の子】scene2

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 教室に行くと、京子と目が合った。出会ってからずっと彼女の方から挨拶し、ソラが応答していた。今日はソラからおはよう、と言ってみる。すると京子も嬉しそうにはにかんでおはよう、と返す。
 座って鞄を机に掛けると、筆箱を取り出して天体観測部のノートを開いた。こうした朝の隙間時間なんかに仕事を進めておくと、後がずっと楽になる。
 スケジュールと費用を計算していた時だ。京子がぱたぱたと歩いてきて、ソラの机に視線を落とした。
「なにしてるの」
 京子は掌をソラの机に置いて、体重をかけながら訊いた。
「部活の」
 短く答える。
「ソラ君も部長なんだっけ」
「まあね」
「どんな活動してるの」
「名前の通りだよ。望遠鏡担いでいって、キャンプして、この時期に見るなら……」
「イマというほうき星?」
「ほうき星、いや、彗星はこの時期はないかな」
 ソラが愚直に答えると「え、知らないの?」と京子は落胆混じりに言った。。
「BUMP OF CHICKENの天体観測。なんで? 天体観測部なのに?」
 京子は本当に信じられないという顔をする。そんなに驚かれることだろうか。ソラは比べることでもないのにと思いつつ、僕はスピッツ派だし、と返す。
「どっちも聴けばいいじゃん」
 京子がしれっと返したので、ソラはなんだか煮え切らない気持ちになって、ノートに視線を戻した。
 しばらくしても、京子が机に作る影は消えなかった。見づらい、そう言おうとして顔を上げたソラの前に、京子の顔が重なる。
「なにそれ」
 京子は筆箱の中から半分出た色物の消しゴムを指差した。小指ほどの大きさで、窓と翼が二つずつの、少し黒ずんだ、ロケットの形をした消しゴムだった。
「ああ、これ。家にあったんだけど、すごく消えにくくて」
 多分、ゲーセンか何かで取ったやつだ。百円を無駄にした罪悪感から筆箱に入れておいたが、結局捨てるタイミングを逃してしまっただけだった。
 京子はしばらく消しゴムをじっと見つめると、かわいい、と一言呟いた。
 ソラの心に、罪悪感を感じずに処分したいという卑しい気持ちが芽生える。
「よかったら、あげるよ」
 すると京子は思いの外喜んで、
「本当? あとで返してって言っても返さないわよ?」
 と続けた。ソラが頷くと、京子はラッキー、と軽く言って消しゴムをポケットにしまう。ソラもまたラッキー、と思って筆箱のチャックを閉じた。。
 予鈴が鳴り、京子が席へと戻る。
 教室後ろのホワイトボードを見ると、一限目に変更があって、明日の四限目からホームルームが移動してきていた。上坂は几帳面で、念入りに準備を重ねることを好んでいる。また修学旅行の話でもするのだろうか。
 本鈴が鳴る。学籍簿を持った上坂が来て、手早く出席を取ると、また慌ただしく教室を出ていく。
 教室内は奇妙な緊張感に包まれた。先週のホームルームが険悪な雰囲気になってしまったため、皆どことなく慎重になっているらしい。
 五分ぐらいして、また上坂が姿を現すと、教室の入り口付近で立ち往生をしている。窓側の席からは何かを面白がる声が上がっているが、廊下側の後方に位置するソラの席からは何も見えない。
 京子が首を回してきて、小声で何か話し、指先は教室の入り口を指しているが、全く聞き取れない。ソラが聞こえないと言うと京子は、何かいる! と叫んだ。興奮冷めあらぬ様子で指差し合図を送ってくるので、
「何かって?」
 と、ソラは訊いた。
「わからない!」
 埒が明かないと思った。
 京子に期待することをやめたソラは膝の上で起動しているスマホに視線を落とすと、片耳だけつけたモバイルイヤホンで音を聞きながら、スーパー・ガールのシーズン四第四話を再生した。
 直後に、ざわめきが教室を満たした。ソラも反射的に顔を上げると、上坂が小さな赤毛の女の子を連れて教壇に上がっていたサンタが持っているような黒くくすんだ巨大な袋を、紐を肩にかけて背中に釣っている。
 上坂が教卓の前まで歩いても、女の子は教室の端から動こうとしない。
 一応学校指定のセーラー服を着てはいるが、リボンはつけておらず、ボタンも止めていない。はだけたシャツの下に着たタンクトップが露出している。スカートにはたくさんの穴がついたベルトを巻いていて、穴の一つにポケベルのような機械を留めていた。
 クラスメイトの妹か、それとも上坂の娘か。様々な考察が飛び交った。
 ソラは、どこかで見たことがある容貌だと思った。しかし記憶を探るためには、教室はあまりに騒然としすぎていた。
「ちょっとみんな、静かにしてくれるか」
 上坂は学籍簿で教卓を二、三度叩く。
「この時間は梶先生の数学だったが、急遽明日のホームルームを回してもらった」
 上坂が言った。
 女の子はそっぽを向いていたが、ふとした拍子に首を回す。
 ソラはその表情を見てぞっとした。小さくて薄い眉毛は折れ線グラフのようにひん曲がり、親の仇が目の前にいるかのように鋭い目をしている。今まで見たどの人間よりも攻撃的な目つきだった。
「こんな時期に申し訳ないが、転校生だ」
 歓声が大多数を占めていたが、ちらほらと憤りの声も聞こえた。修学旅行と期末テストという避けられない行事を前に、なぜ二年甲組にだけ負担が舞い込むのか、という反発だった。
「本当に転校生? 俺には小学生に見えるけど」
 最前列に座る渡辺が言った。内心で、大勢が同意した。
 対して上坂は「人を外見で判断したらだめだろう」と憲法のようなことを口走る。
 黒板に『床無火継』と書き付けた上坂は、トコナシホツギさんだ、と発音した。
 火継【ほつぎ】は呼ばれたものの、クラスを睥睨【へいげい】したままじっと動かない。
 見かねた上坂が壇上へ促すが、火継はその手を払い退けた。
「手は借りねえ」
 ぼそりと言うと、火継は壇上に登ってクラス全体を品定めするように見渡した。
「おい」
 小さな体からは想像もつかないような低い声が響いた。
「アタシに構うな」
 火継が袋を下ろすと、ガタンという重鈍な音が響いた。
「以上だ」
「なるほど。実に個性的な挨拶だ」
 上坂が言った。
 ぽつぽつ降りの雨音が教室に染み入る。
 火継は恐るべき眼力で生徒たちを見下していた。まるで狼が獲物の急所を見透かすように、生徒一人一人の顔を舐めるように見ていく。
「トコナシさんに何か質問ある人は」
 痺れを切らした上坂が沈黙を裂くと、再び佐藤から手が上がった。
「先生、なんでうちの学校は変な時期に転校してくる人が多いんですか」
 上坂は首をごりごりと回しながら、先生に対する質問は後日にしてくれ、と返す。
 佐藤が罰の悪そうな顔で手を降ろす。
 教室は一級犯罪の裁判のような膠着状態に入っていた。誰もが自分から話したくないというドアプレートを顔にかけながら、不良、ヤンキーという語を囁いた。
「まともじゃない」
 ペースを崩されたことへの憤りを、佐藤は転校生にぶつけた。
「なんだその髪の色。ハーフか何かのつもりか? 去年も変な髪色の女が転校して来て、学校をぐちゃぐちゃにしていったっけ。みんなも覚えてるよな」
 そう言って立ち上がり、佐藤はクラス全体を見回し、その視線はソラに留まった。
「賢木、どうせお前の知り合いだろ?」
「いや、そんなことは」
 佐藤はどうだか、と言ってひねくれた視線を向けた。
「このクラスに転校生なんていらない。俺は反対だ」
 同意の声が上がった。
「それは生徒の決める話じゃない」
 上坂が冷静に反論する。
 火継は黒板のチョークボックスから白いチョークを一本取ると、一笑を漏らした。谷の底で響く音をそのまま口から吐き出したような笑みだった。
「アンタらを見てると、飽きないねえ」
 チョークを右手の上で転がしながら言った。学年が一つも二つも下に思える火継の口から、そんな含蓄ある言葉が出るということが、滑稽かつ不気味だった。
「誰のこと言ってんだ、おい」
 少し間を開けて、火継の挑発に応じる形で、佐藤が凄む。
「この街の全員だよ」
 火継の冷たい声が、教室全体を貫く。
「自分がどれほど恵まれているかも知らないで、小さなことでワラワラと」
「いい加減にしろよ!」
 佐藤が立ち上がる。とっさのことでよく見えなかったが、瞬く間に移動した火継が彼の肩に左手を置いて、佐藤の起立を阻止した。全身の力を抜かれるように両足を折って椅子に叩き落とされた佐藤は、ぽかんとして顔を弛緩させる。
「敵意向けたな、このアタシに」
 火継の目が赤く光った気がした。細い腕が伸びて佐藤の左袖を掴むと、そのままゆっくりと持ち上げていく。佐藤がゆっくりと立ち上がっているだけにも見えるが、彼の足は小刻みに震えていた。
「やめとけ」
 火継が言った。佐藤は慌てて口を閉じるが、言霊が抜けたように、紡ぐべき言葉を失っていた。
「いい子だ」
 火継が左手を離すと、再び佐藤の腰は椅子に叩きつけられて鈍い音を出す。
 続け様に右手を開き、チョークを人差し指と親指で挟んだ。火継が力を込めると瞬く間にチョークは粉になって、佐藤の頭上に降り注いだ。
 静まり返った教室の中心を火継は白くなった人差し指で差す。
「聞け」
 ちょうど自分を指されたようで、ソラは肩を少しびくつかせる。気づくと、額には冷や汗が滴っていた。それどころか、身体中から汗が吹き出している。燃えるような髪の赤さに当てられたのか、教室が異様に暑く感じる。
「アタシは人探しのためにここにきた。クソ親父の消息を知ってる唯一の人物をね。顔も名前もわからないけど、絶対探し出す。心当たりがあるやつは早めに出て来たほうがいい。そうしたら半殺しで済ませてやんよ」
 日常の校舎からはじき飛ばされ、別の宇宙を彷徨【さまよ】う教室の中で、微かな恐れと笑いが生徒の口から漏れ出していた。それらの陰口を気にも留めず火継は袋を担ぐと、上坂から指定された席へずかずかと歩いていく。机の隣に置かれた生徒のリュックやカバンをいくつか蹴飛ばしたが、お構いなし。数人から睨まれながら席へ着くと、両足を机の上に載せ、椅子を傾けながら両手で後頭部を支えた。
 火継の視線は天井と、窓辺と、まぶたの裏を行き来した。
 教室が元の宇宙に戻るためには、雨の音を聴く数分を要した。
「じゃあ、そういうことで」
 上坂がパンと手を叩くと、時間がもう一度進み出したかのようだった。
 上坂は仕切り直して京子に、しおりの作成具合を訊いた。京子はソラの方を振り返って目配せしたあと、もう少しですと答える。今日の帰りに、ソラと一緒に作成する流れを確認したかったようだ。
 続いてソラが呼び出され、教壇に上がる。火継のまとっていたオーラが残留したせいか、外は雨なのに妙に熱かった。
「じゃあ班決めと行動計画の紙を集めたいと思います」
 そう声を上げると、錆びた歯車のようにぎこちなくクラス全体が動き出す。
 ソラは上坂に耳打ちして、まだ作っていないことをクラスメイトには伏せておいてほしいと頼んだ。ただでさえ面倒な作業をクラスに強いているのに、指示する側がやっていなかったとなれば非難は免れない。
 上坂は理解のある様子で、何度か頷きながらわかったと言った。
 ソラは誰と京都を巡るのか、まだ決められていなかった。


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