第一夜【サイカイ】scene6

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 喫茶店『ムーンバック』に入ると、一番奥のテーブル席でセンジが読書に耽っていた。
 入ってすぐに右手に見える業務用冷蔵庫のようなジュークボックスはもう動かないが、フィギアやCDケースを置くのに申し分ないスペースを提供している。一番目を引くのは、奇妙な模様をあしらった深緑色の円盤だった。円盤は本物の青銅でできていて、そこに大きな円と二つの三日月、そして無数の小さな円が金のメッキで描かれている。ドイツで発見された世界最古の天文図、ネブラ・ディスクのレプリカだ。
 それと、水晶のドクロ。実際には水晶じゃなくてガラス製。ナスカの地上絵、ハチドリのフィギアもある。台座から伸びた支えの上に、一筆書きされたのっぺりとした鳥がやや傾斜をつけて載っている。地上絵がそのまま空を舞っている。
 他にもスター・トレックに登場する宇宙船USSヴォイジャーのプラモデル、ウエルズのタイムマシンのフィギア、青い電話ボックスの形をしたジュエルケースなんかがひしめいている。これらの異世界の小さな住人のおかげで、店は客の数が少なくても賑わって見える。ムーンバックは店長の趣味から、オカルトやSF映画のグッズが店内の至る所を飾っているのであった。
 京子はビュッフェに連れてこられた飢えた子供のように、目を輝かせて忙しなく視線を動かしている。
「気に入った?」
 ソラが訊くと、京子は髪を逆立てるぐらい大きく首を縦に振った。
「君が知らなかったことが驚きだよ」
「センジから話は聞いていたけど、一人で喫茶店なんて行かないし、あんまり二人で行くのもねえ。あ、でもソラ君とって意味じゃないわよ! ソラ君となら一緒にいいってもいいわ。仮の話だけど。だってクラスメイトだもの」
 と、そう言い切ってから、センジの方をちらりと見る。
 するとセンジも惹きつけられるように顔を上げて、軽く手を振った。
 彼らは『幼なじみ』だ。ソラにはわからない距離感というものがあるのだろう。
 ソラもジュークボックスに視線を流すと、昔まで3体だったゴリラが4体に増えていることに気付く。
「茶色いのがビッグフッド、緑がハルク、白がイエティ……この赤茶っぽいのはなんだろう」
 ソラが呟くと、京子はすかさずウィーウィーよ、と答えた。
「ヒマラヤのイエティ、北米のビックフッド、それと同列のウィーウィーはオーストラリアのUMAよ。アボリジニの伝承に由来するの。アボリジニにとってはのウィーウィーは、カブトムシのような足に、頭と胴がトカゲで、尻尾が蛇。まるでキメラね。普段は深い洞窟の奥に潜み、暗くなってから獲物を求めて外に出てくるのよ」
 京子の淀みない説明を、ソラはぽかんとして聞いていた。
 なるほどこの四体は、様々な世界に居る人型の怪物たちなのだ。全く同じ外見で同じポーズなのに、色味だけ変えて個性を表現するとは、なかなか攻めている。
「すごいな。さすがオカルト部部長だ」
「ちがう、オカルト研究部よ」
 京子は踵を返して、足早に奥へと進んだ。
 センジは相変わらず奥側の席を陣取っていて、隣の席にすでに学生鞄を置いてしまっている。退ける様子もないので、京子とソラが順に手前側に座った。
「今日は店長は休み?」
 ソラが訊くと、センジはそうみたいだな、と答えた。
 ホールの店員は気立ての良さそうな顔をした若い男だ。カウンターの端っこで方杖をついて、天井近くに設置されたブラウン管を見上げている。左耳だけに無数のピアスを空けているのが、どうにもおどろおどろしい。
 店員はソラたちの着座に気付くと、一瞬ギロっと視線を寄せると、すぐに愛想を貼り付けた顔で、銀のお盆にお冷やを載せて持ってきた。
「ご注文はお決まりでしょうか」
 店員が言い出すと、京子とセンジはアイスティーを頼んだ。ミルクかレモンかと訊かれ、二人ともレモンを選択。ソラは、アイスミルクを注文。店員はパタリと帳面を閉じた。
「ほんとにまめったいよな」
 不意に、言葉が背中をちくりと刺した。それは戻っていく店員の口からこぼれ落ちたものだった。方言で、よく働く、という意味の褒め言葉。けれど店員の言い方には、疎ましさや憎しみこそあれ、優しさは皆無だったので、それが遠回しの嫌味だとすぐにわかった。
 店員は別にテレビに向けて言ったのではなかった。その言葉が発せられたのは、帳面を閉じてすぐだったから。
 ソラと京子は顔を見合わせ、同時にセンジを見やった。
 二人の共通の友人としてそこに座る石上千次は、同時に街の有名人でもあった。
 センジの兄は医学部に進み、研究者として身を埋めるつもりだったため、次期当主はセンジだと言われていた。その武者修行として生徒会長を目指す過程で、学校行事のみならず、町内会や組合の行事にも顔を売ってきたのだ。
 しかし兄が突然、院を卒業したら経営に参入すると明かしたことで、センジは継承の責任と、重圧から解放されたはずだった。
 けれど知れ渡ったセンジの顔は一人歩きし、開発に反対する人間が、こうして常日頃から嫌悪の対象にしていた。
 センジはまたか、という顔をして特に言葉には出さなかった。そんなセンジを見て、意図を汲み、二人もまた、どうするということもしなかった。
 しばらく、ムーンバックのニッチな雰囲気に浸るように、三人は無言を噛み締めた。
 テーブルの脇にはメニュー立てと塩・胡椒、アルミの小皿が置かれていた。味もメーカーもまばらな飴玉がいくつか載っている。
「ソラ君、牛乳飲むんだ」
 サーブされたアイスティーにシロップを落としながら、京子がそう言った。
「ミルクね」
「あ、うん」
「ダメかい、ミルク」
「へえ〜、って思っただけよ。ミルクね。私も好き。コーヒー牛乳とか、いちごミルクとかも好きよ。いちごミルクは栃木のやつが一番美味しいのよ。だから普通のスーパーでは買わないわ」
 京子は駆け抜けるようにそう言って、紅茶に口をつけた。水色と白の縦縞のあるストローの内側を、茶色い液体が駆け上がっていく。
「それで、この写真の説明してくれるのよね?」
 京子がポーチからポケットティッシュを出して机の水滴を拭うと、くだんの写真を三人の中心点に置いた。ソラがヒカリを庇って、男に銃を向けている写真だ。
「うおっ。こんな感じだったのか」
 センジがそう漏らすのは無理からぬことだ。センジに伝えたことの顛末には、無論このような視覚的情報は含まれない。
 京子の好奇と羨望の視線がセンジを貫く。失言を恥じるように、センジは縮み上がって口を硬く閉ざした。
「やっぱり千次には話したのね」
「あれは、仕方なかったんだ」
 忘れえぬ二月十四日。恐るべきバレンタインの日。ソラは第一赤章病院の特別棟四階。御門京平の病室で終業式ぶりに石上千次と再会した。京平の体内に残ったナノマシンを摘出する手術の日。気道挿管され、頭から無数の管を生やした京平が、手術室へ運ばれていくのを見送った。
 何かが暴走し、特別棟の全体が隔離封鎖されたのは一時間後のことだった。その日ソラとセンジは、人智を超えた科学【オーバーテクノロジー】がもたらした取り返しのつかない悲劇を目の当たりにした。
「どうしようもなかった」
 ソラがそう言うと、センジも表情を硬くして黙り込む。
「話すべきじゃなかった。でも他にどうすることも、できなかったんだ。僕らは巻き込まれてしまったから。じゃあ君はなぜ? どうして知りたがるの? 僕が意地悪で秘密にしているとでも思っているのかい」
 浅間機関が口止めをしないのは、多くの人間にとってそれがうわごとの物語でしかないからだ。それを物語として捉える人間が物語の内容を知ったとしても、何ら危険は起こらない。物語を真に受け、深刻に捉え、『巻き込まれた』という意識を持ってしまった人間だけが、皮肉にも実際に何かに巻き込まれてしまうからだ。
 ソラは本当に、彼女に何も知って欲しくないと思っていた。でも同時に、人の好奇心を止めることはできないことも、どこかで気付いていた。
「なぜってそんなの、わかりきってるわ」
 京子は座り直して体を膝を向け、ソラの顔をキリッと開いた目で見た。
「退屈だからよ」
 その言葉がソラには、どれだけ無責任に聞こえたことか。
 そんな理由でこっちに踏み込んでくるなよ、と叫びたかった。
 しかし京子は身勝手に聞こえる彼女の論理に、鉄のような論拠を添わせた。
「退屈がどれほど恐ろしいかわかる? 何かに巻き込まれている人間が羨ましく思えるこの気持ちが、あなたたちにはわかる? もうわからなくなってしまったはずよ。だってあなたたちは、物事の重みを背負ってとても辛そうだも」
 でも、と京子は切り返した。
「あなたたちが重さに苦しんでいるように、私だって自分の安っぽさ苦しんでる。何もないこの街で私はいつも、吹いて飛ばされそうで怯えてる。四月から、千次がソラ君となにか深刻そうに話しているのを見てきたわ。二人だけの世界って感じだった。いいわね男子二人で。水入らずって感じ。ちょっと話しかけ辛かった」
「吉野さん、だけど」
「私だけ除け者にしないで!」
 京子の低く叫ぶ声が店内に響き渡った。店員がぎょっとしてこちらを見る。
 丸いレンズの奥には、充血した瞳があった。涙こそ流していないが、彼女の想いは本物だった。
 本当はソラにも、最初からわかっていた。当事者になれない恐ろしさも。目の前で起こっている出来事に関与できない無力感も。
 ソラが一番わかっているはずだった。
 ヒカリと一緒に過ごしながら、彼女の力になれていると自信を持った瞬間は一度もなかった。それでも一緒にいたくて、遠くを見ないことで視力の弱さから逃れてきた。その結果どうなった? ヒカリは去って、影だけが残った。
 宇宙を天敵だと言いながら、宇宙と渡り合えたことなんて一度もなかった。望遠鏡を覗くことしかできない。触れることさえ叶わない。
 蚊帳の外。
「本当のことを言って。全部何かの冗談なの? それとも、宇宙人は確かにいるの? あの日何が起こったの。私は何を見たの。ソラ君、あなたは……」
 京子の両手が、ソラの右の袖に縋り付いた。すぐに引っ張る力は抜け、その両手はソラの肩のそばを覚束なく彷徨ったが、結局彼女の膝下へと戻った。
 ソラは、一度でもこの女の子を卑しいと思った自分に腹が立った。そんなふうに思う権利は、ソラには少しもない。宇宙は隣人で、そして赤の他人だ。人間は皆、交わることのない相手にずっと思いを馳せている。
「わかったよ」
 ソラが言った。
 センジは少し驚いた様子だったが、それでいいなら、という具合で腹を決めているようだった。
 ヒカリが星のシャワーとともに現れてから、兵器として『回収』されるまで。京平がバケモノになってから、御門司郎が浅間機関と決別するまで。
 ソラはその一部始終を話した。
 京子はオリオン座の形を模した背もたれに体重を預けたまま、長くてみすぼらしい悲歌を、呼吸の音さえ立てずに聴いた。

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