第二夜【鬼の子】scene10

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 男は巌の影から出て、クリップボードを再び胸の前に抱えた。
 クリップボードの上には、青く縁取られた三枚ほどの薄紙が挟まっている。ソラとセンジには、見ずともわかった。紙に書かれているのは当該者・当該物の説明とアンケートのようなチェック欄だけである。浅間機関のリスク認定は、たった三枚の紙への記述によって決定される。
 そのプロセスは、人類の敵を断定するにはあまりに呆気ない。しかし電子化の時代にわざわざ紙を利用しているのは、この行為自体が一つの儀式であり、それほど重大な判断能力を有さないからだ。
 つまりリスク認定委員〈ポロシャツ〉が来た時点で、結果はほぼ決まっている。
 出来レースだ。
「対象は人間、年齢は推定84、人種はアジア系と」
 男は熱のバリアに閉じこもる火継を一瞥する。
「閉鎖的だ。チェック。5ポイント」
 クリップボードの上でペンが跳ねる。
「肉体的に不安定だ。チェック。5ポイント」
 男は次に、人型の穴が空いて、中身の水が全部抜けきった貯水タンクを見上げる。
「暴力的だ。チェック。5ポイント」
 男は薄ら笑いを浮かべて、再び火継を見た。
「暴力的とチェックを入れた場合にのみ回答。どれほどの危険性があるか。1個人の暴行、2グループでの暴力、3集団化された大衆による破壊、4兵器を用いたテロ行為、5国家間の戦争行為、6惑星レベルの破壊……。うんと、4ですかねえ」
 追加で25ポイント、と言って男はせせら笑った。
「もう40ポイントですよ。早いですね。重要なのは次です。人間関係」
 そう言って男は、ソラと京子、センジを順番に流し見る。
「協調性がない。どうですか。皆さんならご存知のはず」
 京子はその場限りでも、何か否定する言葉を言い出そうとしたが、結局頭に浮かばなかった。火継に協調性がないことは、火を見るより明らかだった。
「チェック。10ポイント」
 そんな病院の問診表のような問いで、何がわかるって言うんだ。
「継続的な人間関係を築いているか。宗教を信じているか。信頼できるパートナーや友人はいるか。社会的地位を築いているか。逮捕歴、依存歴、病歴の有無……」
 そう言って男は、次々にチェックを入れていく。
「家族間のトラブルはあるか。ふふ。チェック」
 不老不死の男を父に持つ、不老不死の女。彼女は存在自体がトラブルだった。
 そこで京子が急に深刻そうな顔をして、センジをソラを代わる代わる見た。
「ね、今思ったけど、放射能って大丈夫なの……」
 目の前のあまりの出来事に、頭から吹っ飛んでいた事象。ガイガーカウンターの嘶きは今や聞こえてこない。目を凝らすと、画面に鋭いヒビが走っている。
 ソラは自分たちより、火継に明らかに近い位置にいる男に目を向ける。
「私は防護コートを着ているし、パイロットたちはそもそも必要ありません。ナノマシンは中性子線を吸収する。そして放射する。あなた方も、それ以上は近寄らない方がよろしい。十メートル離れていれば死にはしません」
 ソラは火継を見た。腰につけたガイガーカウンター。人を遠ざけるあの態度。
 そうか。
 彼女は七十年前の八月六日、ヒロシマにいたのだ。そして原子爆弾のほとばしる閃光を見た。その時彼女の中で、炎が目覚めた。
 ヨツギの精子から譲渡されたナノマシンが宿主の危機に応じて覚醒し、彼女の体は第二次性徴前の少女のまま成長を停止した。同時にナノマシンは、彼女に生存を与えるため核爆発の莫大なエネルギーを吸収したが、エネルギーを押さえ込むためにはエネルギーが要る。だから彼女は毎日、大量のタンパク質を必要とした。
 火継は内側から湧き出る炎に焼かれている。七十年間、絶え間なく。
 ソラは改めて床無火継を見た。
 床が無い、という字名【あざな】は言い得て妙だ。彼女は根無草ではない。ただ日本の国土を踏むことを許されなかった流刑者。時代に見放された哀れな棄民だ。
「さて。答えを出しましょう。あなたはリスクか、そうでないか」
 男が言った。まるで傷んだ商品の検品をするみたいに、火継を見る。
 その目。
 人間を、繋がりを、心を――、資源としか捉えないその目。ヒカリにゲストなどと、ソラにコネクターなどという名前をつけて、彼らの心と体を管理し、統制せんとする傲慢。
 ソラは拳を握り込む。いつかのような痛みが脊椎を駆け上がる。
 男が黒いペンの先端をひねると、薄いレーザーのようなものが照射された。その光を、腰を折る火継の額に当てる。
「リスク413、報告、と」
「待ってください」
 ソラの発言に一番驚いていたのは、センジだった。彼の言わんとしていることはわかる。なぜまた、踏み込むのか。三人が未だここに立っているのは、火継の暴挙の顛末を見届けるため。京子はもっと優しくて甘い考えを抱いているかもしれないが、ソラとセンジには、脅威を日常から排除したいという共通の理解があったはずだ。
 黙っていれば、それが叶う。
 しかしソラの体は、勝手に動いた。
「これまでずっと、たった一人で、ナプキンの使い方も教わらず、過ごしてきた。人間関係を知らない。学んでないだけです」
「しかしそれが彼女の本質だとしたら?」
「教えてもいないのにそう決めつけるのはあまりに浅はかです」
 男はふんと鼻で笑って、ソラを憐むように見た。
「我々が努力しなかったとでも? 二十一世紀に入ってからだけでも、我々はウルシップ山には六度も赴いた。その度彼らは、〈昭和二十三年合意〉への記名を拒絶してきたのですよ」
「そのナントカ合意は、どうせ組織に都合のいい話だったんでしょ」
「あなたこそ組織の何を知っておいでで?」
 男は威圧的に言った。
 言葉が途切れる。こんなところで、ソラは自分の矮小さを再認識する。
「坂田を、返せ……」
 火継は胸を押さえて、うずくまっていた。声は喉からではなく、肺からそのまま出ているようだった。地面に押しつけられた目蓋の奥で、両眼とも男を睨んでいた。
「アタシのダチを……」
「『ダチ』だって!?」
 男の口調から品位が取り払われたかと思うと、三日月のように口を開き、腹を抱えてげらげらと笑い始めた。
「あのリスク192のことか。あの醜い筋肉ダルマ。坂田金時の成れの果て。錦に体を奪われ、動く肉塊と化したビックフッドがトモダチ!? だとしたらこれは漫才、あるいはコントだ。あれはなぁ、あなたを攻撃しなかっただけ。同行を許していたんじゃあない、認識の外にあっただけなんだよ」
「違う。一年に一時間だけ、教えてくれた、生きる方法を……」
「ヤツは『ダチ』などではない。手も握れない相手を、『ダチ』だなんて呼ばない。そうだろう、学生諸君!」
 指切りの五倍の効力を持つ、握手。
 ヒカリと友達になったあの日、交わしたのはそういう契約だった。
 もし最初に出会ったのがヒカリではなく、火継だったら。森を燃やし尽くしたであろう彼女を、罪人だと一蹴しただろうか。なぜヒカリにできたことを、目の前にいる寂しい女の子にはできない。無責任でいい。わかっている。これはソラ自身のため。徹頭徹尾、ただの自己満足だ。
 それなら、今できる最大のことをしよう。
 ソラは足元に転がったファンタグレープを掴むと、一歩を踏み出した。
 その一歩はわずかだが確実に安全から遠ざかるものだった。二歩、三歩と歩く。温度が増す。人が生きられるのは何度まで? 少なくとも二千度までではない。
 おい! 背中を掴む声が聞こえた。まって! 呼び止める甘い囁きも。
 振り切る。
 目の前の可能性が燃え尽きる前に、ソラはまた一歩足を進める。
 狐顔の男の、狐に化かされたような表情を横目に見てほくそ笑む。そうだ、僕はコネクター。一生続く勲章と枷。ソラは自分を奮い立たせる。
 あと十メートルの距離。すでに巌や凪よりも火継に接近している。
 火継はソラに気付き、来るなと叫んだ。ソラは彼女が、すごく間抜けに見えた。そんな言葉で立ち止まる人間がどこにいる。それに、彼女の本心はこうだ。
 来て。
 助けて。
 誰でもいいから、一度だけでいいから、手を取って。
 彼女の心が揺れると、熱波も呼応して揺れた。大熱の暴風が巻き起こって、ソラは反射的に左腕で顔面を守った。
 命が、進むなと言っている。この先には鬼の胃袋がある。
 右手をポケットへと降ろす。理由はなかった。ただその方がいいように感じられた。そして運命は巡り来る。ソラは強化プラスチックのゴーグルを引っ張り出し、目に宛てがった。
 あと五メートル。
 熱い。全身が焼かれるようだ。現に、服は焦げ始めている。ソラはまだ一口しか飲んでいないファンタグレープのキャップを回し、頭からぶっかけた。髪はベトベト。全身から甘い匂いがした。張り付いた糖質が水分を奪われて固まり、パリパリと皮膚に張り付いたままカラメリゼされていく。
 あと二メートル。
 それはもう、炎を傍観する距離ではない。炎の一部となる距離だった。
「トコナシホツギ!」
 喉が焼け切れる前に、ソラは叫んだ。
「手を」
「だめだ。握れない。アタシは誰にも触れられない」
 ダンゴムシのように縮こまる火継。そうしないともう爆発してしまうんだな。
「それでもいいんだ」
 ソラは焼けただれた左手を突き出す。火継がわずかに顔を上げる。
「大丈夫だから」
 先のことなんてわからない。ソラは嘘をついた。ヒカリがそうしたように、誰かのためになら平気で嘘をつけた。
 火継は腕を伸ばした。超新星のように赤く輝く掌。火傷じゃすまない。
「僕に任せて」
 その手を握る。
 ただ握手するだけ。いつもそう。
 おかしなものとの初期接触【ファーストコンタクト】は、握手から始まる。
 その瞬間、火継に向かってあらゆる方向から突風が吹いて、その風に乗った熱は全て火継の体の中に収まった。
 ソラが尻餅をつくと、センジと京子が駆け寄ってきた。ソラは火継から手を離そうとしたが、焼けた皮膚がくっついてうまく剥がせない。毎朝焼いているシャウエッセンの気持ちが少しだけわかった気がする。指先の感覚はほとんどない。
「やだ、ひどい、これ」
 狼狽する京子だったが、すぐに思い立ち、私、氷とってくるわ! と言って駆け出していった。センジは黙ってソラを見つめていたが、思い出したようにハンカチを取り出し、火傷を負ったソラの手に巻きつけた。そして薄いインナー一枚になり、脱いだシャツを火継の肩に被せてやる。
 呆然とする火継は、両手に視線を落とした。分相応な大きさの肌色の手が見える。
 よくやるぜ、ほんと。センジはソラを見ながらそう呟いて立ち上がると、視線を狐顔の男に向ける。
「どうするよ。こいつ、握っちまったぜ、手」
「さあ、どうしましょうね」
「こういうのはどうかな。こいつはコネクターだ。その役割は知ってるだろ? 異なるものと人間社会とを繋ぐ。そしてこいつは、いつだってコネクターだ」
 どういうことでしょう、と男は首をひねりながら言う。
「浅間機関だって、リスクとして処理するより、コネクター付き添いのもと保護観察下に置いた方が、何かと利益になるはずだ。現にこの賢木空って男は、爆発を止めてしまった。ただの握手で」
 センジはそう言って男ににじり寄る。
 男は無表情のまましばらく考えにふけった。クリップボードを巌に渡し、ペンを指先で遊ばせていたが、その指がピタリと止まる。
「いいでしょう。そうすることにします」
 ペンがぱたりと、黒ずんだ地面に落ちる。
「ケージも有限ですし、生物なので食料も要る。我々で管理するよりコスパがいい」
 すると、センジの口元にひねくれた笑みが指した。
「今、認めましたね。彼女の生存を」
 センジが手を差し伸べると、ソラは右手で掴んで立ち上がった。
「火継のリスクは僕たちが背負います。この二人が離脱しても、最悪僕一人が。ただ、そのために浅間機関には協力していただきます」
 ソラが畳みかける。
「というと」
「可能なはずです。ゲストに与えたのと同等の福祉。これがなければ彼女はまた問題を起こす。そう思いませんか」
 ソラは火継を一瞥する。徐々に、何が起こったか理解し始めている様子だった。ソラに触れられたことがよほど意外だったのか、左手を握ったり開いたりを繰り返している。ソラは男に視線を戻した。
「検討しましょう」
 しばらく考えたあと、男が言った。
 センジとソラは、脇腹の中で低くガッツポーズを決める。そこへちょうど戻ってきた京子が、ビニール袋に入った大量の氷水をソラに差し出した。

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