第二夜【鬼の子】scene1


 菜箸をハの字に開いて卵黄の入った味噌汁茶碗に沈めると、上下左右に十回ずつ卵白を切るように動かす。卵白と卵黄が完全に混ざらないように、程々にしておく。
 顆粒ダシも溶いておこう。顆粒は小さじ半分で、水が五十ミリ。そこにほんの少し醤油と、味の素、それから塩を人差し指と親指の腹で摘んで入れ、軽く混ぜる。
 四角いフライパンに油をひいて、熱して待つ。ちりちりと音がしてきたら、茶碗の三分の一を注いで、形ができたら奥の方へと折りたたむ。空いた手前に少し油を差して、再び三分の一を流し込む。これを繰り返す。
 出来上がっただし巻きは巻き簀で巻いて形成すると、綺麗に仕上がる。あとは分厚く切って皿に移す。冷蔵庫から大根おろしの残りを出してきて添えたら完成だ。
 味噌汁をよそって、ご飯と納豆、だし巻きと一緒にお盆に乗せて持っていく。祖父母はずっと前に起きていて、少なめのご飯に瓶詰めの鮭フレーク、ひじきの煮物と漬物を食べている。
「おはよう」
 ソラが言うと、祖母は目元からこめかみに向けて放射状に広がったシワを濃くして、にっこり笑い、同じ言葉にございますをつけて返した。
「ニュース見てもいい?」
「ええ、どうぞ」
 祖母が言った。祖父は新聞をめくるついでに、ソラの方を一瞥する。
 テレビ台の中段に水平に置かれてるリモコンを取ると、電源ボタンを押す。一度では反応せず二度、三度と失敗し、四度目でテレビの電源ランプに緑色の光が灯る。
 朝のニュース・バラエティ番組は、いじめ特集だった。いじめられているサインとは何か、クラスでいじめられている子を見かけたらどう対処すればいいか、そんなようなことを学生相談窓口の女性と、教員、心理学者などを招いて解説している。
 ソラは味噌汁を一口飲んでから、だし巻きをつつく。程よく脱水され山形になった大根おろしに、醤油を数滴垂らす。これをだし巻きと一緒に口に運ぶ。
 思わず顔が綻ぶ。醤油の国の人間でよかったと、つくづく思う。そういえば、あいつと出会った日も、こんな気持ちになったっけ。あいつにもう一度味わせてやりたいなぁ。
 議論を交わせどいじめへの有効な対策は見つからず、学校の隠蔽体質を批判しだした頃、アラートが鳴って画面上にテロップが入った。京都府与謝郡を震源に震度五。普段なら、静岡と出ない限り特段気に留めることもなかったが、しかし――。
「笑点はどうだ」
 祖父がぼそりと言った。が、ソラは「ちょっと待って」と言ってリモコンを漬物の皿の隣に引き寄せる。
 すると、突如として画面が切り替わり、背後にデスクを控える臨時スタジオで、アナウンサーの男性がスタッフの指示を聞いている。スタッフが画面に端に消えると、男性は「臨時ニュースが入りました」と言った。
 ソラは腕の震えを感じた。箸が茶碗に小刻みに当たっていて、祖母に行儀が悪いと注意された。箸を茶碗の上に渡して、食い入るように画面を見つめた。
『今朝六時ごろ、京都府与謝郡を震源とする地震が発生しました。それを受けて近隣の大江山鉱山跡地では、残された支柱が倒れるなどといった被害が出ており、府は二・五キロ県内を立入禁止区域に設定したことを発表しました』
 男性は一瞬、視線をデスクに落とす。
『今のところ崩落の危険はないとのことです。大江山連山は四つの峰を持ち、山行スポットとして人気がありました』
 画面がさらに切り替わって、山間の風景の短い動画がいくつか映される。
『古くは、源頼光の鬼退治伝説も有名で――』
 大江山の鬼。
 その言葉がなぜだか頭にこびりついた。
 臨時ニュースが終わっていじめ特集に戻ると、ソラはリモコンを祖父の方に回す。高鳴る心臓を抑えつけるように、自分に言い聞かせた。これはただの地震のニュース。十二・八と同じ、嘆くべきことなんだ。
 朝食を平らげ食器を洗うと、ソラは階段を駆け上がり、二階の洗面所で口をゆすいだ後、自室へ戻った。
 机の上に準備してあったシャツに着替え、学校指定のズボンを履いてベルトをきつくしめる。視線をもたげると、オープンラックの一番上は銀色の髪盛りと、ラッピングされた紙袋が、埃避けのフードの下に置いてあった。
 出会った頃、ヒカリがつけていた三角形のフラクタルをあしらった櫛。その髪飾りが、ヒカリの最後にして唯一の痕跡だと思っていた。
 でも、ミステリーサークルは現れた。
「行ってくるよ」
 ソラは、ドアの内側に貼り付けられたポスターに向けて言った。四隅がちぎれ、所々湿って歪んだ、その紙切れに向けて。
 階段を降りていくと、祖母がブリキの茶箱から茶葉を選んでいるところだった。パックではなく、茶葉で淹れる。近頃妙にこだわっている節がある。
 祖母と目が合うと、腕時計を確認したソラは、まだ余裕があるからと席に着く。
 銀色の袋から、ティースプーンで灰褐色の茶葉をすくって急須に入れると、ポットのお湯を直接注いでいく。ふわっと湯気がたって、三十秒ほど待って湯飲みに琥珀色の液体が注がれていく。
 すると祖母がうふふ、と柔らかく笑う。ソラがどうしたのと訊くと、
「最近、なんだか表情が変わったわね」
 と言って湯飲みをソラの方へ差し出した。
「そうかな」
「あの子がいなくなってから、めっきり笑わなくなったけど」
 祖母が言うと、祖父が新聞をぴしゃりと音を立てて畳んだ。
「おまえ、元からそんなに笑う子じゃなかっただろ」
 祖父が言うと、すかさず祖母が返す。
「いえ、あなたの前では笑わなかっただけですよ」
 祖父は早々に舌戦を諦め、湯飲みを口に運んだ。そしてソラがまだ熱くて舌を出しては引っ込めている間に、湯気が上がるそれをずずずと飲んだ。
「ひどい言われようだなあ、ソラ」
「おばあちゃんの言うこと、一理あるかも」
 ソラがそう言って笑うと、祖父も無骨な笑みを漏らす。
「真面目な話だ。あの子がいなくなった日のことを覚えているか」
 祖父は湯飲みを置き、老眼鏡をティッシュで拭きながら言う。ソラは頷いた。
「言ってなかったが、あの事故で友達の一人が死んだ。まあ生きて死を待つようなやつだったから、眠っている間に逝ったのは幸せだったのかもしれないが」
 祖母が苦笑して、申し訳なさそうな顔を作ってみせた。そんな顔しなくても、祖父のウンチクにはもう慣れている。
「ソラ、ワシはこの街で何が起こっているかわからんが、注意しろ。砲火が去ったあとには、物盗りが増えるんだ」
 祖父はそれだけ言うと、美味しい、とぽつりと言って湯飲みを祖母の方へ戻した。祖母は無言で笑みを灯して、急須を傾ける。
 ソラは席を立って、二人に手を振った。
 修学旅行まであと二週間。

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