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ありのままで。

近頃こんな本を読みました。

京大出身の心理学博士が働き口を求めて沖縄のデイケア施設に就職するというストーリーで、
熊野寮出身者としては(なぜか)すごく身近に感じられる話だったこともあり手に取った本です。
熊野寮だけではないけど、京大の人ってこういう就職の仕方する人多いよね(なんか、上手く説明できないけど、わからない?笑)

その中にこんな筆者の説話があります。ざっくりですが。
「ケアワーカーは、ただそこに居るだけでいい。何か治療を施すという立場でそこに居るのではなく、デイケアにいる人々と同じ日常を生きて、普通の生活を送るだけでいい。そのことによってデイケアに通う人々は『救われる』のであるし、ケアをするとする立場にある側も、『誰かの役に立てた』というセルフイメージの向上や充足感を得ることで『救われている』のである」

ここに於いて興味深い観点が、2つあると感じます。
① 「何もしない」ことが「何かをする」ことに繋がる、という点
② 「救う」ことが「救われる」ことに繋がる、という点

①について。
例えば医者と患者のような"care giver"と"care taker"の立場がくっきり区別できるような状況だとわかりやすいですが、
「する側」と「される側」という上下関係が、日常生活においては無意識のうちに出来あがりがちです。
同時に、医者→患者への治療は正しく行われないと、医者が患者の行動から心理状態まで全てを支配し、患者を「抑圧されている」状態に追い込むこともできると。
絶対に必要ないのに大量に薬を投与したり、心を病んでしまった人を精神病棟に閉じ込めたり、
ハンセン病「優生保護法」の問題などは、非常にわかりやすくこの例だと思います。
「する側」「される側」の別というのは、そういった危険性を孕んでいるものだと思います。

誰かを「治す」「癒す」というのは、必ずしもそうではなく。
例えば日常生活の中で愚痴を聞いてくれる誰かがいたり、
一緒に「いただきます」「ごちそうさま」と言い合える家族がいたり、そういう所から始まり、
医療の場においても、がん患者のそばに寄り添って、手を握って話を聞いてあげることがどれほどその人にとっての「治療」となるかわかりません。
薬物や手術といった「病気の根絶」という観点ではなく、ホスピスや臨床心理士といった
「こころのケア」という観点から、の話にはなってしまいますが。
明白な意図を持って「何かをしてやろう」というのでなく、
「ただ、ありのまま」の状態でいることが、誰かを救うのだという論点は、当たり前のようで忘れがちなことだと思います。

②について。
例えば、満員電車でお年寄りに席を譲った時に、自分自身もほっこりした気持ちになるようなことがあります。
あるいは、絶対自分の金銭的特にはならないような友人からの頼みでも、友達のよしみで受けてあげたり
損得勘定だけでは説明がつかないようなことを、我々は日常的にしているものです。
だって、おばあちゃん無視して座っている方が体は楽だし、
一銭ももらえない友達の引越しの手伝いとか、本来なら別にやらなくてもいいことだし(ただ、しゅう、君達の事ではないよ)。
クリスマスプレゼントを恋人にあげるという行為も、もはや定番化してしまっているものの、
本来他人であるパートナーに無償で何かを与える行為って、ひろゆきなら「そんなお金にならない事する人は無能でーす」と一刀両断されそうな事、かもね。

それこそが「助ける」ことで「助けられている」ということだという記述を読んだ時、すごく腑に落ちた気持ちになりました。
そうなんですよね。
決して上から目線ではないですが、何かをしてあげることって本来気持ちいい事だと思います。
相手が笑顔で喜んでくれれば尚更、やってよかったなという気持ちになるのと、
自分も心が晴れやかな気持ちになります。
ボランティアなんかもそうですし、
恋人にプレゼントをあげて、キラキラした目で喜んでくれたら、こっちも嬉しくなるじゃないですか。知らんけど。

作中ではこれを「円環」に例えています。
医者→患者といった「直線的」な関係ではなく、
相手⇆自分という、循環・ループのような関係性が、まさに上記①②だと思います。
「ありのままの貴方でいいよ」なんて言いますが、ドラマの中の単なるクサいセリフではなくて、
本当にありのままの自分であることが、誰か/何かの役に立っていることもあるかもしれないな、と思うのです。

書籍まで引き合いに出して、長々と何が言いたいかって話です。
つい数日前、旅行で家族+祖母が東京に来ました。
祖母にとっては80余年の人生で初の新幹線・初の東京で、見るもの全てが新鮮に映ったようです。
美味しいもの食べて、東京観光も出来て、喜んでくれる姿を見るのが、自分にとっては最高に嬉しかった。
でも別に特別なことをしたつもりもないし、何か高価なプレゼントをあげたわけでもない。
ただ一緒に浅草を見て、おみやげ買って、ご飯食べて、という
日常にありふれた景色の中で、きっと祖母は幸せを感じてくれたのだと思うし、
同時に僕はその一連の体験の中で救われた、と感じている
、ということです。

自分自身が美味しい物を食べて、浅草を見ることの何倍もの充実感と幸福感を与えてくれたと思う。

だけど再度、別に特別な何かをしたつもりはなく(ホテルは多少いい部屋だったけど)、
自分は素の自分で3日間を過ごしただけです。
自分らしくあることが、実のところ一番難しく、一番大切なことなのかもしれず。
莫大な財産も、大層立派な肩書きも、特別なことなんて何もなくても
人は誰かの役に立っている、のかもしれないな、
と感じた旅行なのでした。

アイドルと付き合えなくたって、外車に乗れなくたって、ねえ。

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