夏なので"こわい"という話をします。

はじめに

これは私の仮説と妄想でつくられたフィクションです。

 人間は何が故名付けたがるのでしょうか。

新型コロナウイルス(COVID-19)だって、「疫病」とか「何かよく分からないやばい菌」とかなんかでも良かったはずです。ところが、私たちはあれら菌類に2つ以上の関連する言葉を次々と付けました。

 今回は名付けることから始まる様々な行動から考えられる人間の"こわい"という感情の本質を、
ひどく緩く、私の妄想と仮説等々と共に綴っていきます。


妖怪の話

1つの仮説をたてます。
当時では説明し難い状況や現象(所謂怪奇現象)、或いは信じ難い事象を"妖怪"として名称付け、絵図などで形を留めておくことで、何も分からないという"こわさ"を封じ込めたのではないか。

木霊(こだま)という妖怪がいます。

山、谷などで声やおとが反響しておくれて聞こえる、やまびこ現象。今する人いるのかな、「やっほー」とかのあれ。この現象を、『古事記』や何やらを書き留めていた当時の人間は、木の妖怪である木霊のせいにしていたそうです。
今の私たちならそんなこと怖くも何もないじゃないかって話だし、屁理屈だと言われるとぐうの音しかでないんですが。ぐう。
確かに、やまびこは可視化できない現象だし、街灯もなく夜を過ごしていた彼らが、視界の制限された状態で音に敏感になるのは仕方の無いこと。

なぜなら、こわいから。


あと、これは妖怪ではないですが、いつもと違う場所で寝ている時に視線を感じて起きたら、天井の木目が人の顔に見えたことありませんか?
シミュラクラ現象といいます。3つの点が逆三角形状に並ぶと、人はそれを動物の顔に見立てるという本能的な錯覚・心理があるそうです。

こういう、こわさを和らげる為に現象という名を付け、形を留めておく人間の珍妙な行動はこれだけではありません。


神、仏の話

世界の三大宗教は主に、キリスト教・仏教・イスラーム教と言われており、これらには、もれなくそれぞれ人智を超える超越的存在がいます。

余談ですが、仏の旧字体「佛」の右側の「弗」は~ではないを意味するそうです。氵偏に弗で、水ではない。亻偏に弗で、人ではない存在。仏はひとではありません。人智を超えた超越的存在のナニカなんです。その様相は限りなく人に似ていますが、水かきが着いていたり、耳が異様に大きいなど人のようでヒトではありません。
ただし、あくまでブッダは史的人物で、仏が人ではない存在になったのは、仏教が利他的な救済色が強くなった頃、ブッダを仏陀という当て字が考えられた程最近の話なのでそこの所よろしくお願いします。

話がだいぶ逸れました。
ともかく、神、仏は人ではない存在です。逆説的に考えるのであれば、救済の立場にある為に人智を超えていなければならなかった。それらを私たちは恐るるに足る存在[こわさ]であると認識するために、2点以上で定義づけをした。

ギリシア神話に出てくる神々も、同様に人智を越えた何かではありました。恐ろしい存在故に人を越えた存在であったにもかかわらず、その恐ろしさから逃れる為に神に名を与え絵図で表した。

日本の古くから信ぜられてきた自然にまつわる神々、神道や民俗信仰の神々もまた、畏れられ祀られてはいました。ところが、人のように怒り喜びを持つ存在というひどく身近な存在として、天照大神、海神(わだつみ)、一言主の神という名称をつけ、『古事記』や『日本書紀』等の文献で綴られてきた。

インドから他国へ伝わった仏も、人々を救済する人智を超越した存在として、例えば、釈迦牟尼仏、阿弥陀仏や薬師如来(如来=仏)と名付けられ、曼荼羅などの絵図や諸経典として語られてきました。

神や仏は、人智を超越したおそろしい存在ではあったものの、人間の理解の得られるように価値を下げ、名付け図解しています。
つまり、人間の"こわい"という感情の本質的なところは、何者なのか分からないことなのではないか、ということです。

ちなみにこれも余談ですが、世界三大宗教のイスラーム教ですが、彼らは神を恐れ多い人智を越えた存在故に、いろ・かたちを持ちません。
お祈りの時間になれば、十字架や仏像に向けて信仰するのではなく、聖地メッカの方角を向いて祈りを捧げます。仕事も何もかもを放棄して、1日5回きっちりその方角へ祈祷します。だから、イスラーム教徒の国に行くと、よく交通渋滞を起こすそうです。

おわりに



________分からないことが怖い。

誰かが言ってました。
人間の三大欲求は、食欲・性欲、そして3つ目は睡眠欲ではなく知識欲である、と。

ヒトのこわさへの本質は、知らないこと。
だから私たちは求めるんです、知りたがるんです。

だって怖いもん!

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