見出し画像

『共通善』とは

「急にどうしたのか…?」と思われそうな表題ではあるが、Twitterで私の推しの若い女性からお題を頂けたので、ウキウキしながら病室で考えたテーマである。

宿題は全部で3つも貰えたのだが、いずれも深くて考えさせられる。

浮かれた気分と真逆に、その女性は元々思慮深い方だと思っていたのであるが、予想はしっかり当たっていてとても楽しい時間を過ごしている。

やはり考えている(病気の不安以外を)時に自分は生きがいを感じるし、答えがないことだからこそ面白いと感じられる人間なんだと実感している。

▼ そもそも共通善とは何か?

『共通善』とは言葉から何となくイメージ出来るかもしれないが、実際は政治的な意味で用いられていることが一般的とのことである。

個人や特定の集団の利益ではなく、全ての人に対するメリットの享受を目指している…というのが一般的な解釈である様だ。

カトリックから生まれた思想ではあるもののいくつかの文献等を読み進めていくと、これはあくまで主観的ではあるが「みんなでメリットを平等に分け合う」という共産主義・社会主義の根幹の様に感じた次第である。

…私は共産主義・社会主義に対してポジティブな考えを正直持っていない。
※あくまで個人的に…である

それは共産主義が「結果の平等」に重きを置いていることに起因する。私は平等というのは「機会」に用いられるべきものだと考えている。

例えば、女性管理職を会社全体の〇〇%にするという目的があったとする。「結果の平等」を用いると、%を達成するために仮にほぼ同等の能力が認められる男性と女性がいる場合、女性を管理職に登用するという意識が働くことになりかねない。

これは当初の共通善の目的から考えると、やや本末転倒ではないかと私は感じる。管理職になる「機会」が女性には平等になかったと仮定をすると、管理職に登用される可能性について平等に与えるということは、「機会の平等」を促進するため問題ないとは思う。

「結果」と「機会」の平等

一方で「結果の平等」を重んじて、ただ単純に成果やメリットを案分して与えることは、現代では単純に不公平感招くことに繋がると考えざるを得ない。

▼ この世の仕組と『善』

この世の中は、残念ながら努力が報われる世界とは言えない。一方で私は「努力はできる限り報われる世界」を理想とする考え方を持っている。

努力が報われやすいモノとして、受験勉強は数少ないフィールドであると感じている。この数少ない機会に学生の方々には、是非「努力の大切さ」「成果が結果に結びつく喜び」を感じて欲しいなんて思ったりもする。

さて、少し話は変わるが「共通善」について改めて考えてみると、『善』という定義を誰が決めるのかというのも重要なポイントである。

私は物事を5W1Hで考えることがほとんどであるが、今回は善の決定者(WHO)が最も引っ掛かった。善の内容(WHAT)や、善の理由(WHY)以上にである。

元々「政治」の話から派生してきているこの言葉だからこそ、「政治」ということを少し用いて考えてみると「みんな幸せ」という少し破綻している目標に向けて「共通善」というのは力を発揮しようとすることになる。

「全体の幸せ」「個人の幸せ」の追求は、残念ながら相反するものとなってしまう。

資本主義は「個人の幸せの追求」は結果的な「全体最適」を導く『風』に定義されているが、共通善における平等の考え方は「個人の幸せ追求」は「全体最適」にはどうもなりそうにない。

もっと言うと「幸せ」という観点を誰が、どのように定義するかによって、「その追求をどこまでするかのか?」という個人の自由は大きく異なるという未来が予想できる。

私は癌を罹患しているので、「個人の幸せの追求」は「全体最適」とはならないということを肌で強く実感している。

…新薬の開発を考えてみると、分かりやすいだろうか?

新薬は明らかに罹患する患者が多いことや、治る可能性の高い病気に対して 費用や労力を投資する方が効率がいい。

いわゆる「全体最適」を目指すのであれば、当然そのような多数派のメリットを主とした形で薬は開発されるわけであるが、私のような「希少がん患者」の薬の開発はどうしても後回しになる。

これが「正しいのか、間違っているのか」という議論はおそらく平行線をたどると思われるが、最終的に現代における「多数決」という数の暴力によって少数派は殺される運命にある。

新薬開発の意思決定

これを認めないことが「共通善」には考え方としてあるのかもしれないが、果たしてそれが「正しい」とか「間違っている」とかという議論はくり返しにはなるが、おそらく 結論が出ないところであろう。

結局は「善の内容をどうするか」そして「善の内容を誰が決定するか」という2点によって答えや影響は変わっていくことになるだろう。

▼ 共通善の運命

万人に向けて「共通善」を定義をしたとしても例外はおそらく出る。ただ、この共通善という考え方は基本的に「例外を認めない」という特徴があるので、結局のところ例外が一つでも見つかってしまえば「共通善」という言葉の意味を失ってしまう危険性も孕んでいる。

例外を仕方ないと定義すれば、ある程度の答えは見つかるのかもしれない。ただ、その分反対意見等も出てくることが予想出来る。そしてその大部分は「少数の切り捨て」や「メリットが最大多数になっていない」といったところに集約されるのではないかと思う。

改めて思うに「共通善」には「誰が」考えたかという恣意的な部分が非常に多く、個人的にはそれを「正しさ」として信じるにはいかんせん難しい部分があるように感じる。

結果として誰かの決めた「正しさ」 に寄りかかるのではなく、「自分で考えて自分で決める」ということと「共通善」として今は定義されているであろうモノたちについては「永久不滅ではなく変わっていくもの」という感覚を 持つ必要があるのではないかという結論に至った。

▼ さいごに

何度も読み返して思う。

浅い。浅すぎると。

しかし、今の自分の思考はこんなものだと改めて思えたし、ここから伸びしろがあるのかどうかを示すためにもこの仕上げで公開することを決めた。

私の推しには失望されそうであるが、まだ2つも宿題が残っている。私の伸びしろを楽しんで欲しいと共に、考える(生きがい)をくれた若き女性に感謝している。

他の2つも頑張ります(^^;)

個人ブログも更新しましたので、よろしければ。
今回は『メンタル』のカテゴリーです。

負担のない程度に週2~3回の更新を目指してこれからも日々頑張っていこうかと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?