【小説】猫の私が過ごした、十四回の四季に(第5話)
伊藤家での毎日は、驚くほど平和過ぎて早々と過ぎていくようだった。
男は、毎朝食事を済ませると、書斎と呼ばれる部屋に閉じこもる。そして妻である女の方は、紺色の制服を着た娘と家を出ると、決まって夕方になってから一緒に帰ってきた。
そんな中、私は大抵、朝は太陽の光を浴びながら眠っていた。腹が減れば用意されたご飯を食べ、暇になれば家の中を歩き回り、時々部屋から出て来る男の相手をしたりする。
その暮らしが始まって、私は世界に、季節というものがあるのを知った。
よく眠れる春と秋が、私はとくに好きになった。
季節ごとのイベントが、慌ただしくも思えるほど色々と続いた。そのたび、私も彼らと一緒になって美味しい物を食べることが出来た。
出会った時、ちんまりとしていた中学一年だった娘は、驚くほど速く大きくなっていった。しかし私の身体は、その何倍もの速さで成長し――いつの間にか私の身体は、とうに私の精神年齢に追いついた。
※※※
三度目の春、娘は高校へと進学した。
二つ結びの髪は短くなって、母である女に似て一層可愛らしくなった。進学して早々に部活というものを始め、仕事に出ている女よりも遅く帰宅することが多くなった。
そのおかげか、力も随分強くなったようだった。小麦色の焼けた腕で抱きしめられると、私は苦しくて思わず「ぎにゃ」と奇声を上げたりした。娘は「ごめん、ごめん」と言いながらも楽しそうに笑っていて、私の頭にぐりぐりと顔をこすりつけてくるのだ。
「テニスは楽しい?」
夕食の席で、女が娘に聞いた。
私は、男の膝の上に座って欠伸をこぼしたところだった。問われた娘は、活気に満ちた瞳を和らげてこう答えてきた。
「勿論! 新しいシューズを買いに行きたいから、明日の帰り、迎えに来てもらってもいい?」
「ふふ、いいわよ。ついでに、お父さんのスーツも買わなくちゃね」
女がそう口にした途端、男が味噌汁を喉に詰まらせて激しく咳込んだ。男の足がぐらぐらと揺れて、かなり寝心地が悪くなってしまった私は下に降りた。
そのままソファに向かい、私専用のクッションに腰を降ろす。こちらを男が名残惜しそうに見つめている前で、女と娘が可笑しそうに笑った。
「父さん、来週作家同士での食事会でしょ? そろそろ新しいのを買わなくちゃいけないんじゃないかな、って私は思うよ」
「優花の言う通りよ、あなた。今回は、あの佐上先生たちもいらっしゃるんでしょう?」
「うん、まぁそうなんだけど……。でも、わざわざスーツを新調する必要はあ――」
「あるに決まってるでしょ。あなた、自分の格好に無頓着すぎるのよ。私たちのだけじゃなくて、ちゃんと自分の衣服もいいものを揃えてください」
そうぴしゃりと言われた男が、気圧されて「はいッ」と答えた。まさかあんなに大きな会になってしまうとは、ともごもご呟きつつ食事を再開する。
相変わらず男と女は成長しないな、と私は二人を見つめながらそんな事を思った。そのうち、あと数年もしないうちに娘に成長を追い越されてしまうぞ。
「ついでにサインもらって来て欲しいなぁ。私、佐上先生のファンなのッ」
娘がそう口にして、エビフライをパクリと食べた。男がいつも若く見られるその顔に、悲壮を漂わせて彼女へ目を向ける。
「あのぉ……父さんのサインは?」
「要らない。だって、ずっと一緒にいるじゃないの」
そもそもすごいとも思ったことがない。娘の表情にそんな言葉が見て取れて、男がショックを受けたような顔をした。
その様子を半眼で眺めていた私は、やれやれと思ってクッションの上を尻尾で叩いた。顔を上げると、思わず男にこう言ってやった。
娘は、いつかは巣立つものだぞ、若造。
すると、こちらを見た彼女が、父親へと目を戻してにこっと笑いかけた。
「そんな顔しないでよ。これでも、私は父さんが自慢の父親なんだよ? 最近映画になったやつ、友達と見にいったけど最高だった。まぁ本で読むほうが、ヒロインの気持ちが伝わりやすくて良かったけど」
娘は父親の扱い方をよく分かっている。共に暮らし始めて、私はそれをよく知っていた。案の定、男は嬉しそうな表情で「そうかなぁ」と照れ隠しの言葉を言って、調子が戻ったように箸を進め始める。
女と娘が、顔を見合わせて笑った。男が「どうして笑うの」と首を傾げると、彼女達は「なんでもなーい」と声を揃えてはぐらかした。賑やかな三人の食卓が、より温かさに包まれる。
私は、それを見るのが何よりも好きだった。その中で私も暮らしているのだと思うたび、胸の辺りがじんわりと暖かくなるのだ。
「クロ、おいで」
食事を終えると、男がそう言って膝の上を手で叩いた。
私はクッションから身を起こすと、しなやかな動きで男の膝の上に飛び乗った。頭を優しく撫でる男の手に甘えるように身を寄せて、その温もりを噛みしめるように目を閉じる。
拾われた当時は、想像もしていなかったことだ。
私は、自分でも驚くほど、彼らのことが好きになっていた。
※※※
それから二ヶ月が過ぎ、私が男と出会ってから、三度目の六月がやってきた。
いつもより早く帰って来た娘が、リビングに置かれたソファにドカリと座るなり、テーブルに教科書やノートを置いた。一枚のプリントを片手に、ぱらぱらとページをめくって全てチェックしたかと思うと、難しい顔でそれらを睨み付けてじっと動かないでいる。
どうした、娘。
私は声を掛けて、彼女の隣に腰を降ろした。
またしても宿題だろうか。そう思ってテーブルに並べられたものを見てみると、やはり普段から授業で使っているものばかりだった。この光景に覚えがあった私は、少し記憶を辿って『学校のテスト』かと気付いた。
「もうっ、なんでこんなに試験範囲があるのよ。部活も一週間ないとかひどい……恵理ちゃんのところは、試験前日まで部活あるのになぁ」
別の高校に行った友達の名を口にして、娘が大きな溜息をこぼし、ソファにボスンっと身を沈めた。その振動で私の身体は僅かに飛び、弾力性のあるソファの上で数回上下する。
すると、夕飯の準備を勧めていた女が、食卓を拭きながら娘に声を掛けてきた。
「進学校なんだから、仕方ないでしょう? ほら、ぶつくさ言う暇があるんだったら、勉強しなさい。点数が低かったら、部活辞めさせられちゃうんでしょ?」
「……むぅ、そんなの分かってるわよ」
納得がいかない顔をしながらも、娘が身を起こしてテーブルに向きあった。筆箱から筆記用具を取り出して、「ごはんの準備出来たら呼んでー」と母親に声を投げる。
娘よ、頑張れ。
今頑張ったことは、決して無駄にはならない。
きっと未来へと繋がるはずだ。
私は娘を励ますべく、そう言葉を掛けた。勉強とやらの加勢は出来ないが、そばにいて見守って応援してやることは出来るぞ、と言って彼女のそばで丸くなる。
娘が驚いたように私を見て、それからふっと表情を和らげて私の頭を撫でた。
「そうよね、自分で決めたんだもん。私、頑張るよ、クロ」
ああ。その間、私がついていよう。
私は娘と視線を合わせないまま、頭に感じる温もりに目を閉じて、独り言のようにそう言った。
私を拾った男と、その妻である女の子供。そんな彼女を、彼から紹介されてそのまま『娘』と呼ぼうと決めて三年。
いつの間にか私は、彼女のことを自分の娘のように想うようになっていた。
それくらいに私の精神は、肉体よりもずっと早く、彼らを追い越して熟し始めていたのだった。
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