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小説②「群衆とネズミ」全5話

「へえ、性欲がないの?」

 昔、この仕事に入りたての頃、僕には指導にあたってくれた誰よりも親身な先輩が一人いた。

 僕より一つ年上で、十六歳の頃からこの会社で働いていたカナミさんだ。愛想が良くて、仕事を片付けていくのも速くて、高い料金を払う顧客を一番多く持っていた社員だった。

 彼は、幼い頃からの小遣い稼ぎの癖が身体に染みているのか、どちらの性別に対しても快楽を与えられる人間だった。彼はあの時、面白半分で僕のものをズボン越しに触ったが、しばらくすると「ごめんよ」と言って手を離していった。

「お前が、『人として何も感じないことが欠点かも』って言うからさ。そんなことないよって証明してやるつもりだったんだけど、出来なかったな……ごめん」

 彼が謝ることは何もなかったのに、カナミさんは同情するような視線を寄越し、どこか寂しげに笑った。

 ああ、彼は心底いい人なんだ、と僕はそれだけで分かってしまった。心が無いなんて寂しいし、悲しいよ――彼はそう言って、はかなげに微笑んだのだ。

「人としての心が何処にあるのか、知ってる?」
「こころ、ですか? ……多分、きっと、僕には分からないと思います」

 僕が、考えてすぐに肩を落としてそう答えたら、カナミさんは「ははっ」と笑って、指を向けてこう教えてきた。

「心ってのは、時には頭だったり、胸だったり、足だったり、手にあったりするんだ」

 いい加減なこと言ってませんか、と僕が疑ってまじまじと見つめながら尋ねると、彼は一瞬きょとんとして、それから子供みたいな気取らない顔で笑った。

「俺はね、今の質問には、もうちょっとリアクションがあってもいいと思うんだよね。そうだなあ、お前ってさ、実はとんでもなく真面目かもしれない。きっと大人として歪んでしまいたくないから、奥底に心をすっかり隠してしまったのじゃあないかなぁ」

 でもね、とカナミさんは別の日に、唐突にこうも言った。

「知らない振りをして隠しておくことも、生きるためには必要だと思うよ。きっと俺達は、優しさや愛と一緒に、心の中にたくさんの悪意だって育て続けているんだ。きっとそいつは、人間として、いつか俺達を耐えられなくするんだろうね」

 先輩は善人過ぎて、そして優しかった。辛さを堪えるような笑みを見せ始めてから、しばらくもしないうちに、彼は自分が担当する八階建てのビルから飛び降りた。耐えられるうちに、とだけ書かれた遺言が、僕のロッカーに残されていた。

 それから、何人もの人間が、同じようにして『死』や『失踪』や『事故』で入れ替わっていったが、僕の勤める清掃会社の業務は大きな変化もなく続いた。上司はずっとタバナさんのままだったし、それぞれの掃除道具が入れられた十八人分のロッカーも変わらなかった。

 ビルの一階にある清掃会社には、相変わらず、上司の机と応接間じみたテーブルとソファのセットが窮屈そうに置かれている。錆び付いた縦長のロッカーが十八個連なっていて、これまでの業務日誌や書類が入れられた茶封筒や、分厚いファイルの棚がスペースを取り、掃除道具の消耗品が箱に入ったまま周囲に積み上げられている。

 旧市街地では珍しいことではないか、この地区にあるのはほとんどが個人企業だ。僕らの上司は、妻と子を持つ『タバナさん』で、頭部中央にはすっかり肌が覗いている。ふっくらとした顔、膨れた鼻の上には、広い額や頭部のてっぺん以上に油がのっていた。

 彼は多分、商の才能があったのだろう。誰かのために指一本動かすことも毛嫌うくせに、他人をこき使うのは上手かった。それでいて、お客を捕まえることにスイッチが切り替わると、途端に人の好きそうな物腰の柔らかい中年男になって「やあ、これはどうも」と饒舌に話しを持ちかけるのだ。

 僕らの清掃のアルバイトなんて給料もたかが知れているが、彼が儲けているのは明らかだった。会社は面積の狭い古いビルの一階のままだったが、上司はいつも皺のない白いシャツを着て、上質なベストを着用し、この地区でなかなか販売店の少ない立派なスーツに身を包む。

 車は錆一つなく走行音も静かで、彼は塵や汗臭い匂いとも無縁だった。強烈な香水の匂いは、社内の古臭い建物や備品の匂いすら曖昧になるほど、僕らの鼻先を痺れさせた。

 お客様からの評判がいい会社ではあったけれど、社長であり、僕らの上司である彼を好く部下は一人もいなかった。

 彼は普段から日常的に、個人的な苛立ちも躊躇うことなく職場で発散した。冷房の効いた社内で暇をもてあましながら、その時間を潰すために疑い深い眼差しで目敏くも説教のネタを探し、自分が偉い人間なのだと、何度も確認することで優越を楽しむ人間だった。

「困るんだよね、これぐらい気が利いてもらわなくちゃ、さ」

 僕が会社に戻るなり目だけ投げ寄越して、ロッカーに掃除道具をしまい始めた僕を見つめながら、上司は勿体ぶるような吐息と共に切り出した。

「君、もう何年ここで働いていると思っているの。社員の中では、二番目か三番目か、はたまた四番目ぐらいには古いだろう? ここは君の会社でもあり職場でもあるんだから、目につくゴミを拾って、バラけた消耗品の箱をちょいと直すぐらい、そんなに時間がかかることでもないと思うのだが、どうだろうか? 私は、何か間違ったことを言ったかね? ん?」

 ぼくは、すみません、と謝った。汚れの目立つリノリウムに目をやるが、ゴミは見当たらない。

「違うよ、もうちょっと先の、そら、その後ろだ」

 追って投げられた上司の声に、指示の通りに視線を動かせると、ぐしゃりと丸められたメモ用紙があった。いつも彼が電話を受け取った際、手元に引き寄せている灰色の罫線が薄く引かれている用紙だ。

 そういったものが転がっているのは、珍しいことでもない。僕らの上司は、欲望に忠実な人間なので、思い通りにならなかったり、ちょっとしたことでも機嫌を損ねた。

 そういう時は大抵、手元にあるものを、ぐしゃぐしゃにして放り投げたり、消耗品の入ったダンボールを短く太い足で蹴ったりする。部下を叱って鬱憤を晴らし、そうして自宅にはいい顔をして戻る。――いつも柔和な笑顔で彼の機嫌を直させていたのは、亡きカナミ先輩だっけ、と僕はぼんやり思い出した。

「次からは気を使ってくれよ。こんなんだから、いい後輩も育たないんだよ。皆が君の悪影響を受けるとは限らないが、以前は、もっと早くいい社員教育が出来たんだよ。あの頃は、本当にいいメンバーが揃っていた。全く、新時代が来るとか来ないだとかは知らないけど、これで人間まで良くなれば、文句もないんだけどねえ」

 彼は座り心地のいい椅子にゆったりと寛いだ格好のまま、出た腹の上で手を組んで愚痴を続けた。僕は片付け作業に戻りつつ「すみません」と相槌を打ち、それから何度か頷いて「すみません」と返したあと、汚れた雑巾などを抱えて外の水道で洗ってくることを告げた。

 上司は、なんでもないさ、といい加減な具合で片手をひらひらとさせた。

「別に、私は君だけに注意しているわけではないからね。先輩社員として、しっかりやっていくように、という励ましもあるわけだよ。分かるね? 君が真面目で仕事熱心なのは、上司としてちゃあんと知っているつもりだからね」

 大好きな暇を抱えた上司は、僕が扉を閉める直前までそんなことを言っていた。

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