【第2話】ホラー幻想小説~四番目の蜘蛛異色物語~

 立派な門がある祖父の屋敷は、とても大きくて広いです。

 門から連なる、屋敷を囲い高い塀に沿って、旧式のアスファルトが細く続いています。屋敷はどこまでも緑に囲まれる場所にあり、頭上を仰ぐと、落ちていきそうなほど空が広く感じました。

 屋敷の門に面した雑草の覆い茂った平坦の地は、すべて祖父の持っている農地でした。四方を囲う山々の向こうには、小さな村がぽつりぽつりとあって、一日に四本通るバスが離れた村同士を行き来しています。

 このあたりも、昔は祖父の屋敷の他にも民家があったそうです。しかし、交通の不便などもあって、次第に他所へ移っていったそうです。

 閉ざされた門の向こうからは、相変わらず祖父の動く気配がしていましたが、僕は声もかけることなく佇んでいました。

 そんなに時間は経っていなかったと思います。

 細い道路に突き出た雑草が、風に揺れて影を躍らせていました。アスファルトに映ったその影がピタリと止んだ時、アスファルトに一つの影が現れましたことに僕は気付きました。

 そこには、一匹の黒猫が歩いていました。知的すら感じる、綺麗な顔立ちをしていました。しかし、肩を項垂れるように歩くその姿は、どこか元気がありませんでした。

 黒猫は僕に気が付くと、おや、というように顔を上げて立ち止まりました。金色の瞳が美しい猫です。

「これはこれは、珍しいお客さんだ」

 猫はそう言い、肢体を滑らかに躍らせると僕の足元で腰を下ろしました。そして丁寧に前足を一つ上げて、「どこから来たのかね」と尋ねてきます。

「※※※の方からです」
「ああ、西の方かい」

 黒猫は陽気に笑いましたが、フッと思い出しように溜息をつきました。

「どうかされましたか?」

 僕が尋ねると、彼は困ったように後ろ足で耳の後ろをかきました。

「いやね、友人がいるんだが――薄紫はそんなに珍しいものってわけじゃないし、あいつの毛色では映えないから心配することでもないと言ったんだけどねぇ。ええ、何度も言ったさ。もううんざりするほどね。でも、とうとう『どうにかしてくれ』て泣きついてきたわけだよ。そりゃ、兄さんほど綺麗な顔でもしてりゃ、そりゃあ薄紫だって宝石のように輝くだろうけれどさ」

 黒猫は一方的に喋りました。独り事に愚痴を言っているような感じです。

「茶色の猫さんなんですね」

 とりあえず僕は、相槌を入れました。すると黒猫は、うんうんとうなずいて続けます。

「顔立ちはあまりよくねえが、目元はまぁまぁハンサムで映える、薄紫の瞳が持った俺の弟分なんだ。あんまりにも怖がってしくしくと泣くもんだから、俺があいつの眼球を預かってさ。二日前から一睡もしないで、山の中を駆け回って、探してやっているんだよ。瞳を交換してくれる奴をさ」
「瞳を交換するんですか?」
「ああ。薄いとはいえ、やっぱりちょっと珍しい色には違いないからねえ。皆、盗られやしないかと怖がって、ちっとも話を聞いてくれないんだ。盗人は金色にはもう飽き飽きしているし、なんならお前の眼と取り替えてやれよ、ってからかわれる始末さ。でも、それじゃあ、だめだね。俺は自分の目が気に入ってる。まあ目立っちまうが、夜目が利くからな」

「金色だと、見え方が違うんですか?」

 僕は荷物を置くと、膝を抱えるようにして黒猫と視線を合わせました。見上げる苦労から解放された彼が「ありがとよ」と礼を言ってから、続けました。

「ああ、全然違うね。青銀色はもっと綺麗に見えるらしいが、まあこの世で一番の柘榴色には敵わないだろうな。うむ、あれほどいい眼はない。金色、銀色の輝きも備えていて、それでいて宝石のように美しい赤なんだ。夜目どころじゃなく、世界のすべてを美しく見通せるだろうよ」

 僕は、柘榴色の瞳に興味を覚えました。黒猫は察したのか、途端に金色の瞳をにぃっと細めて言いました。

「まぁ、興味を持つのはいいけどね。欲しいだなんて思っちゃあいけないよ。あれは、たった一人のお方のもんさ。美しさと恐怖で震え上がっちまうくらい位の高いお姫様のものさ。そもそも彼女かそれ以上の器がなけりゃあ、あの瞳は得られないよ。柘榴色の瞳は、主人を選ぶからねぇ。彼女の初めての男だった『あの御方』がいなくなって、二百年はそのお姫様が――」

 と言い掛けた黒猫が、口をつぐみました。余計な話だったようです。部外者には不要かと呟くと、自分で反省して咳払いしました。

「つまりはさ、薄紫の瞳だって素晴らしいもんだってことだ。夜の美しさを眺める瞳だ。流れる時間と空気が奏でる、世にも美しい俺達の世界を映し出すんだよ」

 兄さん、どうだい。

 黒猫の甘い言葉が、聴覚に絡みつきました。しなやかに覗き込んできた彼を見て、僕はようやく、黒猫の二つの尾に、一組の眼球が包まれていることに気付きました。

「きっと気に入ると思うよ。明るい栗色の髪に、大層綺麗な顔をしているのにさ、黒の瞳だなんてもったいないよ。白い肌に色素の薄い髪なら、薄紫も綺麗に映えると思うんだ。ねえ、どうだい? 俺達の見えている世界は、それは美しいよぉ。黒目で過ごした十数年が、馬鹿らしく思えるほどさ」
「どうすればいいんですか?」
「一言、こう言えばいい。『その薄紫の瞳と交換してください』ってな」

 黒猫が、猫撫で声で言って笑いました。

「なあに、俺は約束はきっちり守るよ。丁寧に交換してあげるよ。俺は『じゃあ後は自分で眼球に入れな』って眼球を放り寄こしてバイバイする男じゃあないよ。とっても親切で、可愛い黒猫なんだ」

 僕はうなずいて、黒猫の言う通りにすることにしました。目を閉じると、昼間の世界の明るさが、瞼の裏を通して眼球に染みました。

「その薄紫の瞳と交換してください」

 僕はそう言いました。

 黒猫が「ごろにゃん」と舌なめずりをしたのが分かりました。

 彼が僕の両目を一瞬でえぐり取りました。僕の視界は、またたくまに墨で塗り潰したかのような黒に染まりました。

「交換した瞳を、姫様に盗られない保証はゼロではないよ」

 彼は、喉の奥で嗤いました。屋敷から出ないならまあ大丈夫だろう、と含み笑いをもらします。

 その姫が持っているという、柘榴色の瞳が脳裏を過ぎりました。どれほど素晴らしい美しさを持った瞳なのか、僕はとても興味がありました。

 ――そんな瞳と交換できたら、と微かに考えました。

 ぽっかりと空いた僕の眼光が別の眼球で埋まると、明るい光が視界に大きく広がって目の奥に刺さりました。目を開けてみると、地面にいる黒猫の姿と、上空の風景が左右ばらばらに動いて焦点が定まりませんでした。

 黒猫が右眼を、僕が左眼に指を突っ込んで、眼球の向きを調整し、ようやく視界が定まりました。

 薄紫の瞳は、それはそれは素晴らしいものでした。

 緑の葉の一枚一枚がはっきりと視界に映り、風がまとってふわりと揺れていく様子まで見えました。その風が吹き抜けていくたび、より一層世界が美しく輝くのです。

 青い空を見上げてみると、遥か彼方まで晴天が澄んで広がっていきます。広く近い大空に落ちてしまうという錯覚はなく、広大な空の世界が、僕らの世界の中で膨張し続けているようでした。

「うふふふ。よく似合うよ、お兄さん。じゃあね」

 黒猫が僕の眼球を尻尾でくるんで、上機嫌に去っていきました。

 そして祖父の屋敷の門は、午前十一時ちょうどに開きました。

 着流しの祖父が、先月会った時と変わらぬ様子で僕を出迎えました。小さくて丸い祖父の瞳は灰色かかり、どこかその茶色を浮かび上がらせていて綺麗でした。

 祖父は僕を見ると、僅かに眉根を寄せて小首を傾げました。

「お前、自分の目はどうした」
「交換したんです」
「そうか」

 祖父は納得したようで、僕を招き入れて歩き出しました。

 玄関まで続く石畳はきちんと清掃され、落ち葉は一つも見られませんでした。

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